西美濃 縞更紗石 紹介する花瓶は 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会 を立ち上げられた 七里さんからいただきました 縞更紗については 七里さんから、このような↓メールをいただいております 縞更紗は、おそらくこの世に数本しか存在しないと思われます わたしの知る限り 文化財団の金生山化石博物館に2本と、わたしが2本 だけです 他に、口割れしているのを1本 本体の縞がボケてるのを1本 見たことありますが それ以外は全く見つけられませんでした 金生山化石館(大垣市)にて 2018年に、企画展示された縞更紗 転写 七里さんは一時、古物免許取得し 花瓶買取の広告まで打って 紅孔雀や、縞更紗を探したそうですが 本更紗(紅更紗)は何本かあったそうですが 縞更紗については、皆無だったといいます 七里さんが、貝沼氏(花瓶職人)がご存命の時分に尋ねたところ 縞更紗花瓶の制作は、紅孔雀の以前に行われたと話していたそうです また、現在、唯一人 金生山の更紗花瓶、化石花瓶を 作っているのが長谷川さんです その長谷川さんに、よい景色になりそうな石を 見立てて提供しているのが、清水さんです もう80歳に手が届くかたで、墓石の製造などをしている石屋さんです 清水さんは、かつては 花瓶になる更紗や化石を探すのに、山をかけずり回っていたそうで 金生山は「庭同然」と語ります そんな清水さんに、縞更紗について尋ねたところ 以下ような↓メッセージをいただきました 縞更紗ですが、これはまず入手は難しいです これが出る層が、現在の石灰採掘層とは違うのです 現在の石灰採掘層にも 縞更紗が出る層が埋もれている可能性はあまり考えられず もしかすると、今では紅(紅更紗)よりも入手困難かもしれません (写真を送り、清水さん見てもらったところ) おそらくこの花瓶の)のように どこかで保管されているものしかないのかもしれません もし万が一、入手可能になったら、すぐに連絡します ただ、限りなくゼロに近い可能性のことは了解くださいね クリックすると写真が拡大表示されます 銘「初氷」 (はつごおり) 直径17×高さ25 およそ8.9㎏ かくも希少な縞更紗なのですが 七里さんが、2つ所有するうちの1つを譲ってくださったわけです 「緋山さんにはとてもご縁がありますし 緋山さんのホームページはわたしのバイブルでもあります なので緋山さんでなければ間違っても手放しません」 「緋山さんなら是非1つ持って頂けるなら嬉しい限りです どちらでもお好きな方で構いませんよ」 と言っていただき 入手できたしだいなのです もう1つの花瓶が 以下の写真のもので 甲乙つけ難く、一晩迷いました 制作者の貝沼喜久男氏について 述べておきます 西濃大理石はかつて 中山道赤坂宿の土産として人気を博し 最盛期の明治30年代 金生山のある赤坂町(現 大垣市)には 350もの加工、販売業者が軒を連ねたとされます そうした多くの職人の中で 貝沼氏の功績は 伝統工芸の職人としての 貢献にとどまらず 書「金生山賛歌」をはじめとし 金生山の歴史、花瓶の産地や種類など に関する著作をいくつか残した他 資料館や県庁といった公共の施設 また寺院などに花瓶を寄贈 金生山の更紗花瓶の素晴らしさを世に広め 後世に保存しようとしたところにあります ちなみに貝沼さんと長谷川さんの系譜については 元々お二人は、大垣赤坂の石材会社で仕事されていて 貝沼さんは、貝沼大理石商店という立ち上げ 自作の工芸品の製作販売をはじめられたそうです 貝沼作品の花瓶は ずっしり重たく、重厚さにその特徴があります 七里さんのお話を以下に記します 金生山化石館は 実はわたしが何年か前からそこの化石研究会の会員なのです そこで、すごい更紗花瓶を見て感動したんですよね! 今から思えば最高峰の花瓶を始めに見たということです その作者が貝沼さんです 貝沼さんとも、何度か化石館でお会いしました とても人柄の良い方で化石館に20本近くの花瓶を寄贈されてます その中に、縞更紗は2本です! 化石館に展示されてる花瓶は、全て貝沼作品です また、縞更紗に関しては 貝沼作品以外、現時点で発見されていないようです 金生山化石館(大垣市)にて 2018年に、企画展示された 貝沼氏製作の紅更紗(紅孔雀) 転写 転写 紅更紗花瓶のページで、紹介した 七里会長所蔵の「黄金孔雀更紗石」についての 貝沼氏とのエピソードをいただきました 貝沼さんと何度かお会いするうちに 自宅にも遊びに行くようになり、金孔雀を分けてもらいました! とても気にいっていたとみえ 家宝にするみたいなことを言っていましたが 「家宝ありすぎだから売ってくださいよ」 とお願いして成功しました 緋山は、根尾の菊花石や孔雀石が全国区なのに 金生山の石が地元の人にしか知られていないのが 不思議になりませんでした そこで、金生山の石を広く知ってもらいということ また御世話になった清水さんへの感謝もあり このサイトを制作するにあたって 美石部門の1番最初は菊花石 最後は佐渡の錦紅石をアップしようと決めていましたが 2番目に、金生山ページを手掛けました このようなことから このたび、七里さんから 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会 への入会を許していただきました 私が、更紗花瓶保存会に入会したのは 西美濃の産業の歴史、伝統文化を 後世に残したいという志よりも もっと単純に 多くの観賞石を収集してきた私の目から見ても 西美濃の更紗石は素晴らしい なので もっと多くの人に知ってほしい 理解してほしいということなのです なお、七里さんに 貝沼氏の「金生山賛歌」にみられる 鳳凰と、濤華(とうか)の行方は ご存じなのですか? と尋ねたところ どこに行ったのかわかりません 公共の施設に行ったとすると、どう保管してるのか? と心配です しっかり寄贈品を管理してるのは金生山化石館です いつ行ってもあります 縞更紗2本、紅孔雀3本、その他の更紗石など というお答えをいただきました 鳳凰 濤華(とうか) 濤華は、私の印象としては 暗い荒海の中を泳ぐ白竜を 悟りを得た禅僧が描いたような感じをうけます 「更紗石、どう保管してるのか?」 よほど専門的な施設に寄贈しないと たいがいそういうものなのです 私の最初の石の師匠が 多摩の菊花石を専門に拾っていた人と懇意にしていました その多摩菊を拾っていた人は 公共の資料館だか展示館だかの依頼をうけて 大きな菊花石を寄贈しました ところが石の好きだった館長が異動となって 石に興味のない館長に変わると 人目にふれることもないすみっこに 追いやられることとなります 寄贈した方は、頭にきて 持って帰ってきたそうです また、私の最初の石の師匠は 奥秩父 荒川水系の沢をみんな登って 滝の本の自費出版もしています ひとくちに「荒川の沢を全部」といっても 荒川水系の沢は1500くらいあり 単純に1週間に1つやっつけたとしても30年はかかります 〔 なかには1日に3つも4つもやつつけられる沢もあれば 源流まで1泊する必要がある沢もあります 秩父の沢は、荒れ沢が多いことで知られています 〕 甲武信岳や金峯山、両神山といった日本100名山をはじめとする 奥秩父の山岳は、清水武甲(しみずぶこう)という写真家によって 広く紹介されました 【 清水武甲 1913(大正2)-1995(平成7分) 秩父の清水写真館を継ぐ 秩父の風土、民俗、生活の記録写真をとりつづけた 】 しかし、奥秩父の谷、沢については いまだ未踏の源流部も多かったのです それを全部登って、滝の写真を撮り 写真集にまとめて紹介したのが 私の最初の石の師匠でもあったわけです そのようなことから 両神村の資料館だか展示館からの依頼で 引きのばした滝の写真を いくつか寄贈したそうです しばらく、飾られていましたが やはり館長が変わり、飾られなくなり たずねてみると どこにいってしまったかも分らないという話です 「公共の管理するところに寄贈するくらい つまらないことはないのを悟ったよ」 と師匠はいいます 石にかぎらず 中途半端な公共の施設なんかに寄贈するなら 好きな人、判る人に お金で売ってあげたほうが 大事にされるし 後世に伝わっていく ということなわけです 民間の収集家こそが 文化を守っていく上での主役であり 重要な担い手である ということなのです 鳳凰については このような資料をみつけました その後、七里会長より さらに2つの縞更紗が出てきて、入手したとのことです さらに、その後、たまたまヤフオクで、縞更紗が出品されていたので 購入したそうですが、ヤフオクの写真は綺麗だったそうですが 実物は、色彩がボケていたそうです 白の細い横線が入っていて、黒がボケています 西美濃 黄更紗石 黄更紗(きさらさ)も珍しく あまり目にすることがありません 以下の黄更紗の花瓶は、作者は不詳 最盛期の明治30年代には 金生山のある赤坂町(現 大垣市)には350もの加工 販売業者が軒を連ねたとされますので 赤坂のいずれかの加工屋さんの作かと思われます 銘「秋野の鶴」 直径14.5×高さ21.5 2534㎏ 茨城県結城市の水石業者 株木さんは 「美石の産地というのはくどいんだよ」 (産地を特定するのが難しい)といいます 株木さんは、骨董と石の市をしていて 骨董商が、ときおり美石を持ち込んでくるそうですが その石の産地を特定するのに、難儀するというのです 水石というのは、ある川の石なら そのある川でずっと拾えるので、産地の特定がしやすいのに対して 美石というのは、あるとき出回って 鉱脈がなくなると、それっきりなくなってしまうからだそうです かつて、栃木県の茂木市に、ジャスパーが出て 「茂木ジャスパー」の名で、業者のあいだに 流通したことがあったそうです ところが、鉱脈がなくなり 突如、ぱったりでなくなってしまったそうです 「今じゃ、茂木ジャスパーの名すら知る人がいないんじゃないかな」 と言っておられました また、菊花石でも 同じ石からつくられた石というのは 分かります 以上の話で分かるように 貝沼さんの本にみられる玉石と まったくそっくりの石でつくられた この花瓶が 美濃の黄更紗でない (例えば、外国産) ということは まずないと思います 黄更紗まじりの孔雀 銘「金瑞」 (きんずい) 直径13×高さ25.5 4.63㎏ 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会 の 七里会長からいただきました 同じ石から作られた つがいの孔雀の1羽です この写真でみると 私のいただいた方がやや小さいので雌かな? 黄金の孔雀 銘「炎凰」 (えんおう) 直径9×高さ25 2766g 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会 の 七里会長がある筋の方から入手した花瓶をいただきました 希少な黄金の孔雀で、鳳凰? 火の鳥?がいます 母岩の黒が素敵で、火の鳥を引き立たせています ちなみに、「鳳凰」は 雄のおおとりの「鳳」 雌のおおとりの「凰(オウ)」をあわせた語だそうです もちろん、貝沼作品です 古い紅孔雀の 写真を公開します 以下は、貝沼喜久男 更紗花瓶保存会 を立ち上げられた 七里会長が、ある筋から入手し、ずっと保管していた画像です 『昔はこんなん有りました いまは、どうなってるのか どこかの誰かが、大事にしてくれていればいいのですが』 ということから 私に、画像を送ってくださいました 花瓶は、会長によると 『口の形からして、貝沼さんの10年以上前の作品だと思われる』 とのことです 地元の紅孔雀展に出されたときの写真で その後、一斉に売却れていったそうです 私なんかから言わせてもらうと このような画像を保管してきたということだけでも 七里会長が、いかに大きな文化的な貢献をなしたか ということです それと、菊花石と、孔雀石のみが 岐阜の銘石だと信じてやまない愛石家 そうした人たちの心を動かしたい そういう意味からここに 貴重な画像を公開させていただきました 写真は、実際の花瓶よりは
かなり濃く、写っている感じですが その分を差し引いても、すごいものと認識できます 今だと、このクラスのものは、ほぼ入手不可能です 山岳に雷が落ちる景にみることができます こうした一級品の花瓶は 単なる伝統工芸品ではありません 日本の国土が生み出し 昭和天皇が≪紅孔雀≫と命名された 日本民族の「宝」でもあるわけです こうしたモノへの情緒的な心情 美意識こそが 我々日本人と、他の民族を区別する 日本人の根っこであることを忘れてはなりません 西美濃 更紗花瓶 最高傑作の一つ 銘「濤華」(とうか) 直径17×高さ28 およそ10.5㎏ 「金生山賛歌」より 濤華 つがい(雄・雌) この「濤華」を見たとき、衝撃を受けて 七理会長に、その行方を尋ね 「できたら見つけ出して欲しい」と伝えました その4年後、ついに入手できました 貝沼さんのご長男さんが、所蔵なされていたようです 会長は、ご長男さんのもとを何度も訪れ 貝沼さんの遺作の花瓶を譲ってもらってきたそうですが これまで「濤華」は、見たことなく 突然、出てきて 驚いたそうです 同時に「濤華」に、みごとな紅孔雀が入っているのにも驚いた とのことでした 但し、入手できたのは、雄の花瓶のみです 雌の行方は、いまだ不明です 引き続き七里会長に、探索をお願いしています 天覧の紅孔雀花瓶 昭和4年1月1日謹呈の昭和天皇「御尊影」名古屋毎日新聞社謹製(非売品) この五色の紅孔雀は、貝沼さんのご長男から 七里会長のもとにいっていた天覧の花瓶です 天覧の花瓶は、貝沼さんの箱書の番号から10個ぐらいあると 想像されます このうち紅孔雀は3つ、他は、普通の更紗と化石になるようです 3つの紅孔雀の一つは、ご長男さんのもとにあります 【 緋山は、七里さんが撮影したこの花瓶の写真(画像)をもっていますが 七里会長より、まだ、写真の公開はしないでほしいと言われています 丸形で口つき、口が上に向かって開いている感じの 普通サイズの花瓶で、絵柄は、なにしろ「和」を感じさせるものです また、いずれ保存会で買い取る話が、七里会長とご長男のあいだで できているとのことです 】 もう一つは、ご次男さんが所蔵していると想像されます 七里さんによると、「濤華」の雌の花瓶も おそらく次男さんが持っているのではないかとのことです 次男さんは絶対に、花瓶を売らない方らしいのです さて、この写真の五色の孔雀は 「濤華」(10㎏)を超える大物とのことです 近々、岐阜の会長のところに行って、実物を拝見させてもらってきます 七里さんとしては、ご長男のもとにある花瓶よりも この花瓶が好みである とのことです (どちらも天覧) 私の一番は、やはり「濤華」です 七里会長によると「濤華も天覧の可能性は高い ただ箱書がないのでなんとも言えない」とのことです いずれにしても、「濤華」は 貝沼さんが、自分の代表作として、本に掲載したくらいの花瓶です それと忘れてはならないのは 紅更紗石を、「紅孔雀」と命名したのは 他でもなく、昭和天皇である ということです また、菊花石の場合、≪天覧≫といっても良品が数限りなくあるので 「うちの菊花石のほうがぜんぜん上だよ」という話にもなるでしょうけど 紅孔雀の場合、わたしの知る限り、確実に現存するものとして ずば抜けていいのは 金生山化石館(大垣市)にある花瓶 鳳凰(おそらく次男さん所蔵・天覧?) わたしが所蔵する濤華 長男さんが所蔵する天覧の「和」、そして七里会長所蔵の天覧の「五色」です 左が、貝沼さんが寄贈なされた金生山化石館所蔵の花瓶「紅龍」 右が、代表作の一つ「鳳凰」 このうちどれを日本一とするのは、もう好みですのですし ≪天覧≫ イコール 日本一というのが、現実味のあることとして言えるのです なお、天皇陛下(昭和天皇)が、貝沼さんの花瓶を鑑賞なされた場所は 岐阜グランドホテルだといいます 天覧の化石の作品 名古屋巡幸 戦後、日本復興への 希望となられた昭和天皇のご雄姿です ベレロフォンは、古生代ペルム紀の巻き貝らしいです 貝沼さんの箱書に「家宝」とあります 天覧 更紗花瓶「小梅」 横15×高さ21 およそ5㎏ 貝沼さんのご長男さんから、七里さんへ行って 私のもとにきました 立札は、七里会長によるものです 箱書は、貝沼さんによるものです えんぴつで⑦の文字が書かれています 女性(小梅?)がいます 天皇陛下もご観賞なされた 更紗花瓶、そんな美濃の更紗花瓶も 数年前に、名人 長谷川さんが引退なされたとのことで 制作する人がいなくなりました ここに、また一つ、日本が終わった感があります ただ、日本人に、侘びや寂の心が失われない限りは こうしたモノは受け継がれていくのだとうと 信じて、保存していきたいと思っております 貝沼氏の書「金生山賛歌」の石 「金生山賛歌」には 鳳凰、濤華の他にも素敵な花瓶がみられるので 紹介しておきます 金生山の大理石を種類別して その石を制作した花瓶の写真がみられます クリックすると拡大表示されます 金生山と化石館を 七里会長に案内していただきました 金生山 (転写) 標高はわずか217m 養老山地から望む金生山の石灰岩鉱山 (転写) 金生山と金生山化石館を 七里さんに案内していただきました 以下、七里さんのスマホで撮影 金生山の石灰岩採石現場 2024年10月9日 この写真は、中日新聞 2024年8月5日の記事 ≪校歌にもなった「金生山」いずれ消滅か… 「古生物学発祥の地」で進む採掘≫から 頂上部分の採掘が始まった直後の金生山=近隣住民提供 からです この写真は、ごま塩5151さんの≪星とカワセミ好きのブログ≫から 2018年1月16日の東海道新幹線の車窓 金生山 です https://plaza.rakuten.co.jp/nebulae/diary/201802030000/ 右は七里会長 金生山明星輪寺 (通称 虚空蔵さん)のご住職と 七里さんが懇意になされていて、色々とお話を聞けました 明星輪寺ホームページより 本尊の虚空蔵菩薩を安置する天然の石灰岩の岩谷堂 虚空蔵菩薩は秘仏で、最後に公開(ご開帳)されたのは 昭和60年(1985)だそうです ご住職によると 当時(昭和の時代)は、禁煙を推進する風潮などなく 関ケ原マーブルさんが製造した 大理石の たばこ入れ、ライター、灰皿の三点セット (お盆を入れると4点セット)が めちゃくちゃ売れたらしく、ちょっとした会社の応接間や お金持ちの家には必ず置かれていたそうです 転 写 これは外国産の大理石(オニキス)でつくられたものですが 金生山の更紗石でつくられたものも出回っています また、当時は、情報をネットで簡単に入手できる時代でもなく ニセ物を売る = 犯罪 という考えもそれほどなかったので オニキスを翡翠として売って大儲けをしていたなんて話もしていました 昭和というのは、そうしたおおらかな時代でもあったわれです また、緋山個人的なこととして、最後の花瓶職人で名人の 長谷川さんが、毎朝、健康のため、虚空蔵さんに散歩にくる ということで、私たちがもうちょっと早く着いていたらお会いできたそうです 七里さんのお話では、長谷川さんは、七里さんが最後に依頼した仕事を最後に 引退するときいたということでしたが ご住職の話では、奥さまが元気になり、再び、関ヶ原マーブルさんの 仕事をしているようです 大理石の製品というのは、花瓶だけでなく ゴルフの景品など色々あって、いくらでも仕事はあるらしいです それと、金生山の石を拾って長谷川さんにもっていっていた 清水さんも元気になされているようで、よかったです (80歳にはなるとのこと) また、ご住職も、貝沼さんの書「金生山賛歌」を所蔵なされていました 貝沼さんより寄贈されたもののようです この書は今となっては、七里さんでも入手不可能 七里さんの知っている限り、いま所蔵しているは 七里さん自身と、虚空蔵さん(ご住職)だけです 緋山も入手できておらず 前に掲載した画像は、七里さんが本をスマホで撮影して 送ってたくださったものです ガラス越しの撮影なので 撮影した七里さんの姿が縞更紗の後ろに写り込んでしまってます 後ろにおいやられてしまって 上半分しか分かりませんが、この花瓶は景色がいいです 会長も絶賛!! 若干、こぶりの花瓶ですが、素敵です クリックすると拡大表示されます 銘 「紅龍」 この花瓶を見にいったのですが なぜか、裏面を向けて展示されていました 右は、ガラス越しの撮影なので、ガラスに映る景色が 写り込んでしまっています あと、花瓶の後ろに写り込んでいるは、撮影者の七里さんです 裏面を向けて展示されていたのは 化石館の大垣市の職員が はっきりいってよくわかっていないのでしょう 残念(´・_・`) それとこの花瓶、かなり大きいです 20㎏は超えているはずです 天覧 紅孔雀花瓶「双龍」 七里会長よりいただいてきました 倉敷巡幸 戦後、日本復興への 希望となられた昭和天皇のご雄姿です 横21×高さ35 13.5㎏ 濤華が10㎏なので、濤華よりもやや重いです 「双龍」の銘は、緋山がつけました 七里会長の撮影 さすがに、この花瓶は、宅急便で送ってもらうわけにいかないので (紛失、あるいは落下などによる破損が心配なので) 岐阜までいただきに行き しっかり梱包した上、大きな登山のバックに入れて かついで持ち帰りました
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