緋山酔恭「山水石美術館」 日本の美がここにある!! 全国の水石・美石を紹介


水石について






日本100名山 奥秩父 瑞牆山(みずがきやま)山頂






日本100名山 南アルプス 間ノ岳(あいのだけ・標高4位)にて




華美な文化や人を熱狂陶酔させる文化は

世界どこの国にも見られる文化です


しかし、侘びや寂(さび)といった簡素なものに趣きを見出す心情は

日本民族固有の精神と言えます



もう一つ、日本人固有の精神があります

自然の神秘性を楽しむ心です

よく「外国は石の文化で、日本は木の文化である」と言われています


しかし、外国の石の文化とは

エルサレム神殿やダビデ像に象徴されるように、みがき石の文化です

これに対し、庭に自然石を置く民族など世界広しといえども

日本人くらいなものでしょう



庭に石を置き、雨にぬれたときの色ぐあい

川ずれによるなめっこさ、侘び寂の情を楽しむのですが

それが寺院や資産家の庭だけでなく一般人の庭にも置かれているのです

近年、東京などでは、庭すらない家が多くなってしまいましたが・・・



枯山水〔水を用いず石と砂によって山水の景を表現した庭園〕が

日本独自の庭園であることからも

日本こそ石の文化の国であることがわかるかと思います

この枯山水は、平安中期の記録に、“枯山水(こせんずい)”の名でみられ

“池もなく遣水(やりみず)もなき所に石を立つること”とありますが

この意匠は、室町時代とくに禅宗寺院で頂点を極めています。




水石は、古代中国の唐あたりに起源があるとされますが

日本で独自に発展してきました


中国では奇岩石が好まれますが

日本人は、遠山(山形)や土坡(どは・平地)など穏やかなものをより好みます



 
 
神居古潭石 (かむいこたんせき)   銘「さいはて」





水石とは、この写真のように、自然の石で


山形、孤島、断崖などの景を思い浮かべさせるものをいいます


日本には室町時代あたりに禅の文化といっしょに入ってきたとされます


「水をかけて観賞するから水石という」というのは間違いのようで

もとは山水石と呼ばれたといいます


「よくこういうものを自然がつくったものだなぁ」

と≪天工の妙≫ ≪自然の神秘性≫を感じるところに面白さがあります






中国人も石を好みます

北宋の第8代皇帝 徽宗(きそう)の「花石綱」

(かせきこう・綱は輸送隊の意)は有名ですね

花(珍木)や石(奇岩石)を、地方から都に運ばせました

西洋ではあり得ないことでしょう



●   徽宗(1082~1135)

道教にふけり国政が乱れ、 金の南下により長男の欽宗に譲位

27年 再度の金の侵入により欽宗ら皇族とともに捕虜となり、配所にて没

政治的才能はなかったが、全国から書画や骨董を収集

芸術家の育成にもつとめ、美術の黄金時代を築いた


自身も書や画で有名

徽宗の花鳥画は日本の大名たちにも愛され

特に桃鳩図(ももはとのず・日本の国宝))は、日本人にもよく知られている




しかし中国では、怪石、奇石が観賞中心です

これに対して日本人の愛石家は、自然の景をとくに好みます


歴史的にも中国の愛石家は

「長いものは屈して短くし、大きなものは削って約す」と

石を加工するのに少しもためらいがなかったとされるのに対し

日本では「作りたるは死体として用いざるなり」

として、全くの自然が好まれたとされます






古い水石の写真集には

室町8代将軍 足利義政が愛賞した石

小堀遠州(こぼりえんしゅう)が愛蔵し

のちに尾州徳川家初代義直に献上された石



●  小堀遠州(1579~1647)


江戸前期の茶人。作庭家。近江の人

遠州の名は遠江(とおとうみ)守であったことからで

豊臣氏、徳川氏に仕えた

近江小室一万石藩主


千利休の孫弟子で茶道遠州流の祖

簡素のなかに洗練された優美さや清楚な美を加えた

「綺麗寂」(きれいさび)の創出者

3代家光の茶道師範


また、建築、造園にも才を発揮

本来、作事奉行は建物や庭園の設計はしないが遠州は特別で

江戸城、駿府城、名古屋城天守閣、伏見城本丸、二条城二の丸

大阪城本丸、近江水口(みなくち)城


天皇、上皇の御所としては

後陽成(ごようぜい)院御所、後水尾(ごみずのう)天皇御所

明正(めいしょう)院御所、東福院(後水尾天皇女御)御殿などを手がけた


水琴窟(すいきんくつ)の考案者ともいう






伊達家伝来の石


小堀遠州の添え書きがあり豊前、豊後の大名細川家が有した石

一庶民が米沢藩主上杉鷹山(ようざん)に献上した石


後醍醐天皇が愛し、吉野の行在所(あんざいしょ・仮の皇居)にもお持ちになった石


本願寺の名物とされる石


伊勢、伊賀の大名藤堂高虎が愛賞し

のちに家康にわたり、さらに紀州徳川家の重宝となった石


秀吉が朝鮮から将来したと伝え

南禅寺の各名僧や大徳寺の沢庵和尚らがそれぞれ詩文をつづっている石



などが見られ

水石が古くから日本の上流階級において

精神的文化であったことが分かります


織田信長は銘石の1つを手に入れるために

城ひとつとの交換を申し出たともいいます




また、古谷(ふるや)石は、江戸時代すでに紀州藩で≪お留め山≫

今でいう特別天然記念物になっていて、一般の採石は厳禁とされていたいいます

佐治川石は、鳥取藩で殿様石と呼ばれていたそうです





頼山陽(らいさんよう)も、とりわけ石を好んだ一人です



●  頼山陽(1780~1832)


江戸後期の儒学者。漢詩人。史家

京都に「山紫水明処」という塾を営み

門弟を教育、文人墨客と交わった


また西へ旅行、九州各地を約一年遊歴

詩文や書画をつくり自由な生活を楽しんだ


日本外史〔22巻。源平から徳川氏に至る歴史を漢文体で叙述した歴史書

尊皇思想に特徴がある。山陽の死後刊行され

未曾有得の大ベストセラーとなった〕の著者






水石は、心に自然の風景が存在しなければ

なかなか感じることは難しいでしょう


例えば、砂漠の国の人に滝石を見せても

滝を見たことない人なら何も感じません


そして「よくこういうものを自然がつくったものだ」

と天工の妙を感じる心情に関して

水石は他のあらゆる文化の追従を許しません


さらに水石には、侘びや寂

盆栽同様に、小さな自然から大きな自然を思い浮かべる

といった日本人固有の心情、美意識

のほとんど全てが備えわっているのです



 

秩父の古谷系統の硬質砂岩 



万葉集〔我が国最古の歌集。20巻。奈良時代末期の成立とされる

約350年間にわたる約4500首を収録

詠み人は、天皇や貴族はもちろんのこと、地方官や農民にまで至る〕

には、星を詠んだ詩がほとんどないそうです


これは日本が【山紫水明】(自然の風景が清浄で美しい)の国

【雪月花】(四季があり美しい)の国であるからだ

と考える人もいます


このため星に感心を示す必要がなかったからとされているわけです

国旗に星が描かれているのは

砂漠や草原などの自然環境の厳しい国が多いそうです











水石ブームは、本当にあったの?



≪ 昭和30年代終わりから、40年代はじめにかけて

「石のブーム」があった ≫

よく、水石家の間で語られます


これを聞いて

当然、私も、石のブームとは

水石のブームだと思い込んでいました



ところがこれは思い違いのようです




茨城県結城市の水石業者 株木さんによると

石のブームは、2度、あった そうです

2度の石のブームを経験したそうです



ちなみに株木さんというかたは、業者に卸す業者さんでもあり

水石の世界では、名の知られたかたです


もう80歳ちかいかたですが

業者の人みなが、口を揃えて

株木さんの人のよさを語るくらい親切なかたです




話をもどすと


1度目は、東京オリンピックのとき

東京オリンピックは、昭和39年(1964)です


2度目は、バブルのとき

昭和の終わりから、平成の初めにかけてです

昭和は、昭和64年(1989)で終わっています



そしてこの2つの石のブームは

水石でなく「美石」のブームだというのです




株木さん曰く


「一般の人が買わないとブームにならないし

一般の人が買うのだから、水石でなく美石です」


「石のブームのときは、石が飛ぶように売れました

とくにすごかったのは、バブルのときです」


「私が売ったのは、主に

ファンシージャスパー(インドとパキスタンの紛争地域に産する碧玉)

新潟県本庄市の木化石(黒と白のコントラストの美しいものらしい)

津川ぼたん(新潟ぼたん)

でしたよ」


「当時、デパートの催事売り場で

本庄の木化石が、全部売れちゃって

午後に、追加するなんてこともあったほど

石が間に合わないほど売れました

いまじゃ木化石なんて、欲しがる人いないよね・・・」




美石のブームと、株価は関係がある

とのお話をしていたので

再び、株価があがり、景気がよくなれば

石のブームがくるのかもしれません




それから、第一回の石のブームのあと(東京オリンピックのあと)

群馬県の藤岡市に10軒ほど、石を磨く磨き屋さんができたそうです


株木さんは、骨董と石の市場をしているので

藤岡の磨き屋さんは、自ら原石を仕入れ、磨いたものを

市場にもちこんできたといいます


30㎏もあるような石を、20個、30個と積んで

もちこんできたといいます


それがみんな売れてしまうほど

すごい勢いだったそうです


ところがバブル期のあと

市場にもちこんでも

値段がつかなくなり、原価を割り込むようになって

藤岡の磨き屋さんがみんなやめてしまったといいます



外国産の石については

ファンシージャスパーが、すでに昭和の30年代終わりには

日本に入ってきていたようです


同時期、またそれ以後

他にも、ブラジルの瑪瑙

アリゾナの木化石(数は少なかったそうですが)

など様々なものが、日本に入ってきたといいます





では、水石は?


株木さんによると

「私が商売を始めた昭和30年代終わり頃には

東京には、先生という人がいっぱいいました」


「その頃がブームといえば、ブームだけど

水石の場合、趣味の人が少ないので

美石ほどではなかったです」

というのです



また、こうも語られました



「水石の場合、愛石家が

自分の所属する水石会の展示会の他に

お付き合いにいくつかの展示会に出展していることが多いし


一回、展示会に出して、水石雑誌に写真が載ると

10年はその石は、出せない


なので一人のお客さんが、必ず一年に

5個、6個と、買ってくれました


ブームというより

そうした静かな流れが

今日まで、ずっと続いてきた感じです」



とのことです






根尾の菊花石

グリーンの母岩に赤花








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