与十郎石 盆栽屋.com さんのブログに http://bonsaiyacom.blogspot.com/2004/04/blog-post_24.html さて与十郎石の話です 水石界で与十郎石はあまりにも有名ですが その作出者であるといわれている与十郎の人物については ほとんど知られていません 伝説上の人物だと思っている人もいるくらいです 水石界の古老の話によると、与十郎は実在の人物です 加工技術が天才的であることはその作品で知られていますが 原石を探し出す才能にも優れていました それを併せ備えていたからこそ、彼の天才的技術が生かされ 今日の水石界において高い評価を得ているとさえ言えるのでしょう とあります 埼玉県 羽生市の盆栽と水石を販売なさっている 雨竹亭さんから、ヤフオクに出品なされた与十郎石 商品説明に 幅17.1cm×奥行8.7cm×高さ4.7cm (台座込) 俗に言う“作り石”とも言われる与十郎石の、遠山景色見事な一石です 本石も遠き昔人の手により生み出されたものではあるものの 双岳の美しさ、そして雲海をも思わせる裾野の広がり その景色の素晴らしさは名工の手によるものと思われます とあります 一方、水石収集の大家であられる 本多忠三氏のサイトに http://osasoi.tyuuzou-honda.com/164_ioe_.htm 世に、"与十郎石の由来は不明である" と記されているのを見ます また、"最初の作者が与十郎と言われる人が作ったから与十郎石である" と書かれているのも見ます これは、共に間違いです とあります 本多さんのサイトには 与十郎石誕生についての秘話というか歴史が書かれています 要約すると 岐阜市に住む坂井貞亮という人が 揖斐川沿いのとある家の庭で 先端が、雲上の山並みにみえる大きな石を発見した 坂井さんはこの大きな石を買い 先端だけ切りとって 底切りの山形石(水石)とした この「とある家」の当主が、与十郎という名前であった これが、与十郎石という名の始まりである ということです 底切りして、底を自然風に直した例 (雨竹亭さんの与十郎石) 本多さんのサイトにみられる 平沢勝栄氏(政治家)の与十郎石 23×9.5×5 なお、以上を 坂井氏の末裔の方に直接聞いた話 として、本多さんは書かれています それと坂井貞亮という人が得た 雲上の山並みの山形石は 底切り石ではあったが、上部は、自然のままであったようです 坂井貞亮という人は 瀬田川石にも優れた加工していたと あるので 本多さんの記事から推測するに 最初の与十郎は、上部は自然で 底を直したものということになるでしょう ここで一つ疑問に思うのは 総作りの石は、坂井さんの石よりずっと以前から あったはずです なぜ、そうした総作りの石が ≪与十郎石≫ と呼ばれるようになったのか? ということです これについては 本多さんのサイトに その後この石(坂井氏の石)を模した 与十郎石と称する加工石(総作り石)が 沢山流通していますから、本物がどこにあるか分かりません とあることから 坂井氏の石が、総作り石の模範となったことから 総作り石そのものを「与十郎石」と呼ぶようになった という推測が成り立ちます むろん、原石によって 雲となる石英の貫入の仕方が違ったりするので 絵を模写するようにはいきませんが・・・ いずれにせよ 現在では、【与十郎石】といえば 総作りの石の総称となっているわけです 例えば、この抹香石ですが この石は、アタマは作ったと思われますが あとは自然の形で、総作りではないので 与十郎石とは呼ばれません なお、抹香石の場合、形に手の入ったものが 多いことで知られています 古谷石や静岳石と同様、硬質石灰なので酸が効きます なので、酸で焼き(溶かして)、整形していくらしいです グラインダー?で削って形を作り あとは酸で焼いて整形していくのでしょうか? 総作りとは、原石から花瓶をつくることなどを イメージするといいかもしれません 金生山の巨大2枚貝 シカマイアの化石の原石 長さ1メートルくらい100キロ以上 シカマイアを竜が臥せっているような 景色に仕上げた化石花瓶 石材加工職人 長谷川修平 作 長谷川さんは 祖父から3代、花瓶を作る仕事も手掛けており その技術は全国1とされ 過去にも長谷川さんほど花瓶を薄く作れる人は いなかったといいます また、花瓶に使う石を見立て、長谷川さんに 供給しているのが、80歳に手が届くご年齢の 清水さんという墓石専門の石材屋さんです ( 石を見立てるとは、 原石を見て この石から、このような景色の作品が作れるだろうと悟り 見立てる=選び定める ことを言います ) かつては花瓶になる更紗や化石を探すのに 山をかけずり回っていたそうで 金生山は「庭」同然と語ります このように 総作りの作品とは、その景色の美しさはさることながら 加工技術や見立てのよさをも 愛でるものなのです それから、総作りであっても 以下のような石は およそ与十郎石とは呼びません 1、美石の総作りである場合 北海道の白老錦梅花石 別名 白老(しらおい)赤幸太郎石と呼ばれる ジャスパー系の石で採石の少ない希少石です 2、型による総作りである場合 この石は、秩父の古谷系統の砂岩を砕き 接着剤をまぜ、型につめて固めたものです 水石ブームのときには 石渡さん(故人・秩父の水石業者)がずいぶん売ったようです 写真の石は、私の石の最初の師匠が秩父の人で 石渡さんと懇意にしていて 石渡さんが亡くなった時、形見分けみたいにして もらってきたものです なお、抹香石でも同様の成型石がつくられたようで 静岡の著名な水石と美石の収集家であられた 一刻爺こと田幡先生(故人)のところで拝見ています 庭に形のよい抹香らしき石が放置されていたので 持ってみたら、ずいぶん軽いのに びっくりしたことを憶えています 3、粗悪品の場合 ヤフオクで自然石として入手した滝石です 総づくりではないものの 底切りで、滝のあたりに手が入っていて さらに黒く染めてありました ワイヤーブラシでちょっとこすったら 白っぽい肌が現れてきました(右部分) こうした粗悪品は たとえ総作りであっても「与十郎石」とは呼ばれません 以上のことから 与十郎石とは 【職人の鏨(たがね)の技がさえる総作り石】 と定義できるかと思います 私の石は 茨城県結城市の水石業者 株木さんよりいただきました 株木さんより 福島の新田川(にいだがわ)のすごい石が入ったので見に来い という連絡をいただき それを目的に行ってみると 下の写真の与十郎石があったのです 株木さんは、業者に卸す業者さんで 市もやっていることから 骨董商がもちこんできたもののようです 値段を聞くと「2万は欲しいのよ」 というので 内心「安い!!」と思いつつ 「1万5千円にはならないか」と値切ってみましたが 「2万でなんとか」というので それでいただいてきました このとき、与十郎の他 新田川の石をはじめ 11点(水石3点・美石8点)を買ったので 安くしてくれたというのもあります クリックすると写真が拡大表示されます 横50×高さ(台込)8.5×奥19.5 およそ4㎏ もともと、総作り石は、興味の対象ではなかったので ついでに買ったという感じでしたが ふと、長野の月水苑の月水先生から 加工跡ひとつ残さなかったという 与十郎石の名人 有澤氏の話をきいていたのを 思い出したので 株木さんに「有澤氏という人はご存じですか?」 とたずねてみました すると 「有澤なら、何度も石を買いにきたからよく知っている」 「石の世界で、それなりに名の通った人で 自分は石から生まれてきたようなことを言っていたけれど 有澤が得意なのは、平らに切った底なんかを自然風に直すことで 与十郎と呼ばれる総作りをつくる腕はないよ」 「与十郎なら、静岡に武田のけんちゃんというすごく腕のいいのがいた 有澤なんて及びではない」 「けんちゃんの父親も同じ仕事をしていて けんちゃんは跡を継いだのだけど 総づくり石において、けんちゃんの右に出るものはいなかったな」 「昔は、じん肺対策なんてしなかったから、肺をやられて、早死にしてしまった」 〔じん肺とは、鉱物性のほこり(粉じん)を長期間にわたって 吸い込み続けた結果、肺内に粉じん が沈着して起こる病気〕 「いまは与十郎のできる人はいなくなり 昔の石がまわっているだけなので この石も、ひょっとするとけんちゃんの作かもしれないよ」 という話をされました また、株木さんは、以下のような話もなされました 【 底切りを直す場合、底を自然風に仕上げても どうしても、底だけが 全体(自然の部分)と違った感じになってしまう 違和感を感じさせるものとなってしまう ところが総作りの場合、全部が作ってあるわけだから これを振動タンブラーに3回くらいかけると (荒い石の粉から、細かい石の粉にしていく) 全く自然石と見分けがつかなくなる 】 振動タンブラーにかけるというのは 佐渡の赤玉でいうところの樽磨き・樽ころがし 糸魚川の翡翠でいうところバレル研磨 と理屈は一緒ですね それから、株木さんから 【 石の玉も、振動タンブラーでつくる 石を手で磨いて丸くしようとしても ちゃんと丸くするのは不可能である タンブラーにかければ ツヤも勝手に出るので磨く必要もない だから、玉をつくるのが一番、楽である 】 というお話も聞いたので 調べてみると サイトやYouTube動画に 数珠玉なんかの製作に関するものがみられました 私の知り合いの友人が 庭石として名高い 三波石(さんばせき)の業者で 庭石も丸みがないと売れないので樽磨きをするそうです 樽をかけ終えた当初は、石が削れた表面が白っぽくても しばらく外に置いておくと、それがなおり、川ずれ石のようになるそうです 雨にあてると、表面が自然石のようになるということです 三波石 転写 つまり、有澤は、加工跡ひとつ残さなかった→ 名人 という論理も、成り立たないのでは? という話になるわけです たまたま、月水先生より 五色の古潭についての質問をいただきましたので 株木さんの有澤氏についての話を伝えると 以下のようなメール(内容を一部要約しています) をいただきました 武田さんという人の話は、よく耳にしてきました 「静岡の武田」というのは 武田石切り工場の 武田さんと一致するにであれば 石切り専門と聞いています 私は、武田さんが石の総作りを なさっていたというには、聞いたことがないですが、、、 直接お伺いしたことがない故、正確には分かりません ただ静岡に武田という石の切断専門工場であったことは確かです 本多忠三さんに話しにも、武田石切場が出てきます 昔は、みんなそこへ持って行っては石切断をお願いしていたみたいですね 有澤氏とは、非常に晩年に、仲良くさせて頂いていました 石を観る眼力は、右に出るものがなかったようですが それは若い頃の話で、晩年の作品に関しては、ウ?ン? という感は否めません 有澤氏の全盛期を知らない私ですから 株木さんに話が、出鱈目という事ないと思っています ただ、有澤氏は、水石全盛期(石のブームのとき)に 東京松坂屋で7年間、大きな水石展を主催 中央水石展なるものを見事に成功させたと聞いています この話はまことらしく 当時のパンフなどが残っています また、樹石、愛石専門誌の表紙を 飾っている石がたくさん残っています 晩年の作品に「笠富士」(安部川石・樹石表紙)と 赤玉の大作があったのを記憶しています 近代盆栽の古い号には 有澤作品が、自然石の如く、たくさん紹介されていました それから、一雨会会員の小泉先生が その著書「究極の美」で 有澤名人を紹介していたり 一雨会出身の小池先生からも 一目おかれた存在であったことから 技量は、あるレベルに達していたと考えられます 彼の手や指は、ノミを叩く際に 指を打って、潰れていた事を、私は知っています 晩年は、自ら叩くや、底直しなどは 焼津にある桜井さんに依頼して加工させていたようです それと、有澤は、非常に稀有な存在であったようで 当時の大方の盆栽屋や石屋を敵に回していたようです お金にも悩まされて支払いが悪かったため コケおろす人が多かったんですね 私の石屋さん仲間数人 群馬の関さんや埼玉の神岡さんからは メッタやられていたようで いつも「有澤は悪い奴」と、聞かされてきましたからね あと、有澤の作品の特徴は 石底が大きく丸味を帯びており、台座に据えやすくされています だいたい私は見ればわかります 以下は、月水先生が送ってくださった 有澤作品の写真 加茂川の紅流し石 有澤氏が水石趣味の仲間と作成したと思われる 小冊子が私(緋山)の手元にあり そこに1石、有澤一幸(いっこう)加工と書かれた石があります クリックすると写真が拡大表示されます 小池雨石氏というのが 前述の月水先生のお話にでた 一雨会出身の小池先生だと思います この冊子には、有澤氏所蔵の石もみられます 総づくり石なのでしょうか? 下の石もみられますが 有澤氏の手によるものなのでしょうか? 逆に、有澤はこうした 明らかに総作りと知れるものは作らなかったのでしょうか? さて、以上の写真から察するに 世に与十郎石とよばれるものには 1、水石として作られたもの (ウブに似せることを目的として作られたもの) 1、水石という分野に土台を置くも その範疇(はんちゅう)を超えた 「作り石」として作られたもの この2つがあるのではないでしょうか? そして、有澤氏は前者の名人だったと思われます この石は、かつてヤフオクに出たものだったと記憶しています (記憶違いで、愛石家のブログでみたのかもしれません) 作り石は、興味の対象ではなかったものの あまりにも綺麗というかみごとだったので 画像をいただき、保存しておいたものです この石なんかは ウブ(自然石)に似せることを目的として作られたものとは 明らかに違うことが分かります 以上のように書いて、月水先生にメールしたところ 先生より、古い雑誌(樹石? 愛石?)でしょうか 有澤作品の写真がとどきました まじかwww レベルが違いました(笑) 在りし日の有澤氏 左の石がこれ↓です すごすぎです!! また写真で見る限りウブにしか見えません この石は、雲上の山にも、海に浮かぶ山にも見えますが 海に浮かぶ山のほうがいいかもです すごいのは、波に「動き」を感じさせるところですよ 欲しくなります また、海となる白ばかりでなく、中腹に走る白い筋や 皺(しゅん)のような縦の筋も活きています 有澤氏が 原石からこのような景色の作品が作れる と悟る「石見立て」においても 慧眼をもっていたことがうかがえます この石は、紫晃石でしょうか? この作品を見ると有澤氏が 水石という範疇(はんちゅう)を超えた 「作り石」にも卓越した技をもっていたことがうかがえますね さらに、月水先生からです 自分で見聞きしたことだけしかわからないのですが 有澤さんは、すごかったですよ 一雨会など一流どころ出身の諸先生の旧蔵石、遺愛石のなかには 有澤与十郎石が、自然石然として、たくさん収蔵されているはずです つまり、 一番脂が乗り切った時の作品は ウブと変わらないものとして 垂涎の石となっているはずであるということです まさに名人芸です 今後、有澤氏の作品であることが証明出来るものは たぶん自然石より価値が上がると思います あなたはご存知であるかと思いますが 盆栽界に身を置いていた 私は、古参からよく 水石の95パーセントは、ほぼ手が入っている! と確信的に言われてきました ゆえに私は、水石とは一線を引き ただの石コロに興味を持って あちこちの川石を訪ねて 石コロから優れたものを見出せるようにやってきたのです そういう私の今に至っての考えは 水石というものは 作っているのか? ウブであるのか? に、こだわることなく いいものはいい! それでいいかのではないかと思います ただ、やはりウブがいいですね いまだ夢を追いかけてもいます それと与十郎石という名称について 私が直接聞いたのは、二人くらいです 一人は、秩父の山石園(水石業者)の石渡さん(故人)で この方は、揖斐で 硫酸焼きの龍岩(根付け盆栽用)の買い付けに 揖斐によく出張されていました その時に聞いた話です 総括すると、与十郎という名称は 作った人ではなく、よく石を拾っていた人からついた ということです さて、≪武田のけんちゃん≫に話を戻しましょう 株木さんに聞いたところ やはり、 武田石切り工場の武田さんでした 「石切り工場って、建材の大理石でも加工する工場だったのですか?」 と、株木さんに聞くと 「水石の底切りと底直しを仕事としていた」 と言うのです そこで 「水石の底切りと底直しだけで、飯が食えたのですか?」 と聞くと 「当時は、静岡に同じような仕事をする工場が50軒もあった」 「そうした加工業者のなかで、けんちゃんの腕は、ピカイチと評判だった」 また 「静岡のどまんなかに、軍(ぐん)神社というのがあり 毎月18日に、石の競り市があった」 「日本一の市場で、全国から石の業者や加工業者が100人くらい訪れた」 「市にもちこまれる石が多すぎて さばききれないので、朝から夜遅くまで市がなされていた」 ということでした 当時(昭和30年代後半から40年代にかけての石ブーム)の 石の需要が、どれほどすさまじかったかを伺わせる話です 驚愕でした 横23×高さ(台込)7.5×奥8.5 670g にわかに与十郎に興味をもつようになり 祖母からいただきました「与十郎石」になります 詳細は分かりかねます ということで メリカリに出品されていた石を入手してみました 形もさることながら 山肌に、割れや穴などなく 白の摂理も綺麗でなかなかです 本多さんは、サイトにおいて 私は、平野部分が「白くなって」いて その「平野の上に山々がある格好」が 与十郎石として、必要な 又は、基本的な格好であると確信しています と書かれています 石はおそらく 富士川か安部川あたりの石かと思います ちなみに 富士川は、長野県・山梨県及び静岡県を流れる 富士川水系の本流で、長さ128km 日本三大急流の一つに数えられています (他は最上川と球磨川) ウキペディアには 南アルプスの鋸岳(のこぎりだけ・2685m)に源を発し 長野県富士見町にて八ヶ岳などを源流とする立場川と合流しながら 長野・山梨両県の県境を成す 山梨県域に入ってから 尾白川、塩川、御勅使川などと合流しながら甲府盆地を南流し 笛吹川と合流する ここまでを釜無川と呼ぶ 一般的に釜無川と笛吹川の合流点より下流を富士川と呼び 富士山の西側を南流し、早川、常葉川、波木井川など 静岡県に入ると稲子川や芝川などの支流を合わせ 富士市と静岡市清水区との境で駿河湾に注ぐ とあります なお、笛吹川は、奥秩父連峰の 甲武信ヶ岳(100名山・2475m)・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と 国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持ち 甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し 南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する とあります 富士川鉄橋にて 転写 黄色の新幹線は、ドクターイエローと呼ばれる 新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査するための車両で 10日に1度程度しかみられないそうです 小仙丈岳より鋸岳 転写 鋸岳(2685m)は 南アルプスの名峰 仙丈岳(100名山・3033m)と 甲斐駒ヶ岳(100名山・2967m)の中間に位置する山で 日本200名山に名を連ねています 南アルプスの100名山、200名山クラスの山では もっとも危険な山として知られます 私が、以前、登ったときも お盆期間中にも関わらず その日、登山した(角兵衛沢をピストン)のは なんと私だけでした 甲斐駒、仙丈、鋸岳 この3つ登山口は バス停が同じため、甲斐駒、仙丈をめざす人で バスは満員、登山基地も人であふれていました 川の近くで、一人テントを張って 明日、登る鋸を想い、不安と高揚が入り混じった気分で 満天の星空を眺め、夜を過ごしたことが思い出されます 「あと何度、こういう気分を人生において味わえるのだろうか・・・」 なんて感慨に浸った記憶が蘇ります
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