根尾菊花石 Ⅱ 横23.5×高さ(台込)16×奥6.5 およそ3㎏ 小森宗閑(小森勝文)さんは、日本愛石館2代目館長のようです また、宗閑という雅号も2代目のようで 宗閑を名乗る前は、崇石や凡堂と称していたようです これくらいが実際の色に近いです 当初、名古屋の骨董商がヤフオクに出したのが この石との出会いのきっかけでした こぶりながら、バランスがよいのと 崩れやすい赤花にしたら 花弁がしっかりしています そしてなんといっても赤が鮮やかです ヤフオクの写真 「すごい石がでたなぁ」とみていたら 1日、2日で出品取り消しになっていました 入札者が幾人かいたのにもかかわらずです そこでこの骨董商に電話で問い合わせると 「委託販売の商品で、委託者の事情で取り下げた」というのです 私は、これだけの石なので、委託者の家族が 「売らないで欲しい」と委託者に頼み 出品を取り下げたのだろうと推測しました そこで杉山さんに、同様の石が入手できないか と尋ねると 「じつは昨日、その石を買いに行った」 というのです そして、骨董商の方から 25万の値段を提示されたというのです しかし、実物は、写真ほどには 赤が鮮やかではなかったので 値引きを交渉したところ 骨董商の店主は 「他にその値段で買いたいという人がいるから」 (たぶん杉山さんの同業者) と値引きに応じなかったので 買わずに帰ってきたとの話でした さらにこの話には続きがあって しばらくして別の要件で杉山さんに電話すると この石が、友人(同業者)のもとにまわってきたのだが 35万でどうか? というのです 専門の業者さんが25万で買う石なので いい石であることは確かで 35万なら妥当な金額と言えます 杉山さんは 「本来、もっと高く売れる石だけど 緋山さんは元値(25万)を知っているから(笑)」 と笑っていました ただ杉山さんが所有しているものなら 「色がよくなかったら返品でもいいなら、送ってみて」 という話ができるのですが 杉山さんのご友人のものとなると それも申訳ないので 「ちょっと考えさせて」と返答しました 「ちょっと考えさせて」は その気があるわけですから 杉山さんはすぐに、友人の方に連絡をしたようです しかし「もう売れてしまった」 とのことでした ところが、さらに話は続きます 根尾には、純粋なコレクターだけでなく コレクター兼業者みたいな人も多く こういう方は、お金で手放しますので 結局、杉山さんのもとにきて 私の所有するに至ったわけです 職人に出し、表面を磨き直させ、ロウ引きし直したことで だいぶ色がよくなったとのことでした 赤の鮮やかさからいうと この石↑にはおよびませんが 究極の赤花の菊花石と言えます なお、花弁に赤が最も多く入る石 (真に赤花菊花と呼べるもの) を調べてるみると やはり、花弁の先が火炎のように乱れるようです 転写 転写 横18×高さ(台込)13.5×奥13 2750g これが、もともとの台座 この石は 花がよく、3つの方向からも観賞できますが 逆に「この景色!!」というのもなく やや石が肥えているのも欠点と言えます とは言え、初鹿谷の糸菊として、わりといいモノです 加えて特筆すべきは、花がややメノウ質で 青いということです 青菊というのはなかなかないです この石だけでは、さほど評価がつきませんが 赤菊、青菊でペアにすることができます 菊花石・水石専門業者 天勝庵の渡辺さんよりいただきました 横21×高さ(台込)30×奥7 およそ5.5㎏ この孔雀菊花石は 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長よりいただまました 孔雀の玉が小さいのと、錆が目立ちますが 花の数が多く 全体のバランスがよいです また、孔雀と花のバランスもよいです 花は、若干、ボケてはいますが 孔雀菊としては、形もよく 錆を「黄金」と見立てれば 黄金孔雀菊花石です それと、毬花(まりばな)が多く混在しているところに 面白さがあります 七里会長によると、白木産とのことです 七里さんは、ご自身、桜石、孔雀石、菊花石を 収集、コレクションもなさっておられるのですが 「赤倉山は、粒の大きな本孔雀が有名ですが 白木にも孔雀石はいっぱいあります 白木の孔雀は、粒は大きくても5mm程度です ただ、白木の孔雀は種類が多いです」 「ちなみに、美山から神崎でも孔雀石は拾えます 赤孔雀や、珍しい孔雀が出る場合、美山(神崎)が多い気がします」 というお話をしてくださいました 横39×高さ(台込)23.5×奥15 16㎏ これは「雷石」といって 根尾の初鹿谷で、菊花石の近くで採れるそうです ただ数はそれほどないそうです 杉山さんより この菊花石を買ったおまけにいただきました 朱の色が綺麗で 紅加茂に似ていますが この菊花石の右上部の「赤」が 雷石の「朱」に似ているということで 杉山さんは送ってくださったわけです この石は、根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 「梨地」「糸菊」「カラフル花」(花弁に赤が混じる) という 初鹿の菊花石の代表的な要素を全て揃えていて ≪これぞ初鹿の菊≫というものです しかもこのタイプで、このレベル、この大きさの石を 探すとなるとまず不可能とのことです わたしの所有する菊花石の中では一番高額でした 横22.5×高さ(台込)23.5×奥10 4㎏弱 希少な牙の名石です 根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 牙は、石灰岩をボンドでくっつけるなど作りモノが多く 基本、杉山さんは、手を出さないそうです 遺愛石をまとめて買い取るなどしてたまたま入手した などということ以外、手を出さないと言います この石は、杉山さんの友人で 専門的に牙を扱っている業者さんにみてもらい 自然のモノであるというお墨付きをもらっています 横14×高さ(台なし)22×奥13 4.4㎏ とても希少な五色の母岩の菊花石です 赤、黄色、オレンジ、茶色、黒、白の6色がはっきりと確認できます また赤は、茶赤などではなく、はっきり赤と感じる「赤」です 一番下の写真よりは、実際の赤は濃いです 横にして飾るように台座が付けられていました 山麓の緑、中腹の黄色、山頂付近の赤と 上から下へと順次、紅葉していく山の姿として観賞できます 横21.5×高さ(台込)16×奥4 1520g 写真手前部分は、小花の固まりです 赤の中芯花の名品、なかなか希少です 母岩は茶色です 根尾の菊花石専門業者の杉山さんが 東京の業者より買い取ったものをいただきました 白木産でなく、大須の菊花石とのことです 横17×高さ(台なし)19×奥7.5 2221g 台座は仮のものです この菊花石は、ヤフオクで多数の入札があり 競って落札しました 大須産のピンク花です 若干、花がボケた感じはありますが バランスがいいです また、ピンク花でも ねずみがかってくる場合もありますが この石の白は、綺麗です ヤフオクの写真の方が 色も質感も、実物に近いです 上手ですね 横15.5×高さ(台込)14.5×奥6 1123g ヤフオクで落札した 孔雀菊花石です 小ぶりな石ではありますが 全体のバランスがよく 孔雀菊花石としては、花の形も抜群です また、孔雀の玉(羽模様)もしっかりしていて 赤もわりと鮮やかです よく赤だと思って落札すると 茶赤だったなんてことも多いのですが ちゃんとした赤です 石に落ち着きがあって 菊は、野菊を思わせる野趣があり 赤は、もみじとして 秋の山野をイメージできます なお、根尾の菊花石を自採し、磨きをしている 白山紋石庵の山下さんのお話では 白山紋石や津軽錦石の岩崎花紋石は 球果流紋岩なので 花が球果として入っている このため、どっから磨いても問題なく花が出てくる しかし、菊花石の場合、水平に入っていたりで うまく磨かないと花が出なかったり 磨き過ぎると花がなくなってしまったりで そのへんが難しい とのことです 山下さんのお話からすると 花に厚みがなくても、不自然とは言えない ということになりますが とはいえ、この石の花は、厚みがないので ニセモノを疑いました こうした花↓と同質の加工を疑ったわけです この石の花なんかは、根尾の菊花石専門業者の杉山さん曰く 「加工にしても、樹脂を埋め込んだというより ただペイントしたようなひどい粗悪品だね(笑)」 とのことです そこで、事前に、杉山さんに ヤフオクにログインしてみてもらい 「この花は、ホンモノです。わたしが保証します」 との確証をいただけたので 落札しました むしろ杉山さんは、赤が写真のような鮮やかな色でなく くすんだ赤ではないのか? と、そのことを気にしていました これについては わたしは、天然石大好きさんから この石↓をいただいていたので これほどではないにしても それなりにいい赤なはずだ という確信があったわけです ちなみに、五城目孔雀石が、ジャスパー系統であるのに対し 岐阜の孔雀石は、大理石(石灰岩)の系統なので 照り、色の深み、透明感 いずれも ジャスパー系の五城目に比べたらずっと落ちます 写真では、たいがい明るく光らせて撮ってあるので 硬質に見えているだけです ただ、孔雀の赤い部分は、青い部分よりはずっと硬いです これは、ジャスパー(碧玉)でも言えることです 例外的に、土岐石や、北海道の興部(おこっぺ) 一部の出雲めのう(花仙山のジャスパー)は 緑でも質はよいのですが 全体的にいうと、 赤に比べると、軟質で かなり質が落ちます また、完全に青や水色のジャスパーは存在しないと思われます 群馬県の下仁田なんかに 見た目、ジャスパーに近そうな青はありますが やはり、ジャスパーとは言えないほど、硬さも重さもありません 根尾の孔雀石 22㎏ この石は、赤茶の上に、鮮やかな朱色の紅を流したような景色です 母岩の茶色が派手さを抑え、右の青に孔雀の玉がみられます 欲を言えば、玉がもう少し大きければというところでしょうか・・・ このように、茶赤さらには、鮮やかな朱色の紅を かけた(流した)ようにみえるのは 赤が硬度が高く、茶と青が低いため 磨いたとき、赤い部分だけ艶が出ることからです 横26×高さ(台込)18.5×奥6 2931g この菊花石は、茄子花で 花が、茄子紺色をしているところに稀少性があります 横16×高さ(台込)23×奥6 2887g この石は、根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 一番のウリは、むろん「赤」のチラシですが このような角花と、糸菊の中間的形状の 繊細な花は あるようでなかなかないものです たぶん、白木の菊花石ではないかとのことです 横27×高さ(台込)23.5×奥15.5 8㎏弱 この石は、根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 多重芯花の名品です 多重芯花の秀石というのは、なかなかお目にかかれません 以下の2石しか観たことありません どちらも、ネットの画像です 転写 (バック修正) 転写 転写 転写 大須産 純白、くっきり花で、迫力があります 台座は、タガヤサン(鉄刀木)です タガヤサンは、紫檀(シタン)、黒檀(コクタン) タガヤサンと称される銘木で 木目が美しいのを特徴とします 横18×高さ(台込)30×奥10 8㎏強 この孔雀菊花石は 玉が小さいのと、花の数が少ない という欠点はあるものの なにしろ美しいです!! まさに「孔雀」の名にふさわしい名石です 菊花石の8割を産出した 赤倉山の所有者であった若森氏が出版した 「菊石 孔雀石」という写真集にみられる この石↓ これまでみた孔雀菊花石の最高峰である と前述しましたが 美しさという点においては この石の上をいきます 美しさの原因は なんといっても 鮮やかな赤が入ることです この赤と、爽やかな青色が 茶色と黒に混じって まさに「錦」の色調を織りなしています また、黒の母岩と茶色の孔雀が 派手さを抑え 華やかではあっても、派手さのない 日本人が好む色合いとなっています それと、花の芯が黄色であるのも 一興を添えています それから、孔雀菊花によくみられる サビの混入もみられませんし ヒビや割れもないことからも 孔雀=美しい をイメージできます 横19×高さ(台込)11.5×奥9.5 2225g 根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 日本愛石館 館長の故 小森宗閑(勝文)氏の箱つきで 「姫菊の里」という銘がついていました 姫菊の里という銘は 小菊の名品に、よくつけられる名称です 杉山さんより ピンク花は希少ですが 今回のピンク花は、薄紫の様にも見え 白花の中のピンクとか、薄ピンクとかと違い 特別希少な白木の一級品です とのメッセージを頂いております ピンクは、この石以前に4つ入手していて 「もういいかな」と思っていたのですが あまりに綺麗だったので 食指が動かされました 横35×高さ(台込)48×奥7 15.5㎏ 根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 赤芯花の傑作で、親花(おやばな)がみられます このタイプ〔親花のある〕石は これまで、他にこの↓しかみたことありません 転写 私のこの石にも、右端に 完全ではない花ですが、親花が確認できます 横17×高さ(台込)23×奥11 およそ4㎏ やや小ぶりではありますが、孔雀も菊も申し分なく これぞ≪孔雀菊花石≫と言える石です 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長が、わざわざ見つけてきてくださいました 横22×高さ(台込)12.5×奥3.5 1497g 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長よりいただきました 白木産の赤菊です この石は、七理会長がヤフオクに 18万円近くで出していた石を 「会長、ぶっちゃけ10万になりませんか?」 と交渉して入手しました (1つ下のメノウ花の石も同時に買ったので だきあわせで安くしてもらった感じです) そもそもなぜ、この小ぶりな石が18万もするのか? それは、赤が入ると、花弁が乱れる 赤花の地の色は、灰色で灰花である という常識というか欠点を、クリアーしているからです 灰花に赤で、赤の花弁に乱れが見られます (この石もよい石ではありますが) 下の石は、以前 杉山さんが60万くらいの値をつけ、画像をおくってくださった石です おそらく30㎏くらいの石ではないでしょうか 花がいっぱいで、花も大きく、花弁に乱れもない 赤花菊花の名品中の名品に間違えありませんが 私の場合、こうした石には、食指が動きません なぜなら、地花が灰色だからです 灰は、白花のものに比べると美しさという点において 各段の差が出るわけです また、一般的にニュウ(白線)は嫌われますが 水石趣味の私からいうと 今回入手した石の場合、ニュウの入り方がよく かえって景色を引き立てていると言えます 横29×高さ(台込)21.5×奥125 およそ9㎏ 大花は、白に、薄緑と赤の混じる不思議な色のメノウ花 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長よりいただきました 石は、白木産で、かなり昔に採掘されたものだそうです (七里会長のお店に、昔、採取した 原石を売りにくる方も多いとのこと) 満天菊さんが磨いて、台座をつけられたそうです 美山 菊花石 岐阜県の美山町(みやまちょう)は、岐阜県山県郡にあった町で 2003年に高富町・伊自良村と共に合併し、山県市となっています 山県市神崎が、もとの美山町だそうです 根尾の菊花石は、赤倉山で8割、初鹿谷(白木)で2割採掘されたといいますが じつは美山でも菊花石をわずかに産出し 「美山の菊」と呼ばれているそうです 美山町には日永岳(1158m)を源流とする 武儀(むぎ)川の支流 神崎川が流れています なお、武儀川は長良川の支流です 石原宣夫先生の サイト「菊花石物語」に http://www.kikkaseki.com/place/page3.html 【 一般には、美山はあまり知られていませんが 舟伏山の東側に山県市神崎があります もとは美山町なので、この地から産出する菊花石を 「美山の菊」と呼んでいます 美山には日永岳を源流とする神崎川が流れており 谷合で武儀川になり、最後に長良川に注いでいます 神崎川と武儀川に添った広い山地から菊花石が産出します 】 とあります おそらく、美山でも菊花石がでるが 赤倉や白木のように商品になるような石が ほとんど採れない(また採れることはなかった) ということかと思います また、美山には、菊花石の仲間で、紅梅石と呼ばれる石が採れます 多くは神崎川で採取されるようです 紅梅石は、石灰質の核が集まり、マグマの中で弾ける→菊花となる さい 穏やかに弾けたことにより梅に似た花ができたようです 紅梅石の母岩は石灰質を多く含むそうです 石灰質を多く含むので、弾けた核が軟らかく広がって梅花となるそうです 「菊花石物語」 泰中コレクション より転写 紅梅菊 横25高33幅9cm 銘・春秋 美山の神崎川で60キロの川ズレの紅梅石を 見所を求めて3枚に切断した真ん中の石だとあります 希少な美山産の菊花石(糸菊)です 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長よりいただきました 横26.5×高さ(台込)14×奥5.5 2175g 後ろが面白く 左が菊花、右が梅花となっています ちなみに、武儀(むぎ)川は、絵画石で知られます 里山田園 横16.5×高さ(台込)18.5×奥4.5 1690g 高麗(埼玉県)の巾着田と日和山(305m) 転写 里山田園は、満天菊さんよりいただきました 武儀川の支流 神崎川で自採したということでした 絵画石の産地として著名なのは 福井県の九頭竜川、新潟県糸魚川地方の姫川(薬石) 岐阜県の武儀川(むぎがわ・長良川水系)あたりでしょうか・・・ 以下の月と山岳、波濤断崖とともにセットで楽しんでいます 月と山岳 横19×高さ19.5×奥10.5 およそ6㎏ 荒川上流(秩父の寄居)で採取 荒川では絵画石は珍しい 右は、槍ヶ岳近くの裏銀座ルートから見た槍ヶ岳 波濤断崖 横22×高さ(台込)17.5×奥5 2151g 隠岐の島 摩天崖 横18.5×高さ(台込)28×奥4.5 2580g 銘「まほろば」 この石は、むろんピンク花の傑作ですが ピンク花の傑作というだけでなく、菊花石の傑作と言える石です 純白の花にピンクが混じっていて ピンクの色も濃いので非常に綺麗です 花のバランスもよく 美しさという点だけでいうと これ以上のものは本でも見たことありません 大きさも高さ28センチ(台座込み)あり 個人が飾るには最適サイズです ただ、この石を、菊花石の最高傑作品にあげる理由は それだけではありません この石が、粒花(ミニ花)が湧出して 成花へと生長していく過程を描いた 「創生の菊花石」だからです 以下、転写です 毬花(まりばな)から ツノが生えてきて、成花へと育っていく物語が この石には、刻まれています この石をネットで見たとき「こんな石があるんだ」と思い 杉山さんに、画像を送り、見てもらったことがあります 杉山さんは、個人が所有するには大きすぎるし 写真は明るく撮っているようなので 実際にはもっと花が暗く見えるのではないだろうか? と言っておられましたが 私がこの石を、特別視したのはそういうことでなく「物語性」なのです 私の評価では、粒花から成花へと至る 創生の物語をもつ石であり 粒花という観点においては これ以上の石は見たことありません なお、この石が、淡墨桜(うすずみざくら)で知られる 根尾谷の淡墨公園内のさくら資料館に展示されている菊花石であり 大きさ 横95×高さ61×奥30 であることは 石原宣夫氏の「根尾の菊花石」で知りました さくら資料館は、淡墨桜に関する資料館で 1949年(昭和24年)に、淡墨桜の樹勢を回復するために 歯科医 前田利行によってなされた根接ぎの様子や 作家 宇野千代の「淡墨桜」に関する作品などが 展示されているといいます 菊花石の展示については 平成13年に根尾村郷土資料館がリニューアルされたさい 内容の充実させるため 根尾村が、石を購入したそうです 平成16年の平成の大合併で 本巣郡の本巣町、真正町、糸貫町、根尾村が合併 根尾村が本巣市となり そのさい資料館の名前が「さくら資料館」に変更されたそうです 今回、物語性をもつピンク花の傑作の菊花石を 入手できたことは、じつに幸運でした もちろん、杉山さんからいただきました こちらの石は、、滅びゆく栄華を表わしています 銘「平家物語」 横23.5×高さ15.5×奥9.5 およそ7.5㎏ この石は、五色の母岩に 黄金花という素晴らしい川ズレ(谷ズレ)の菊花石です 上の2枚の写真では、グリーンがあまり出ていませんが カメラの色彩調整で、1つ青をあげると グリーンが写ります この写真を、パソコンの写真編集ソフトで 青味を落とすと、下のようになります グリーン母岩は 菊花石の母岩のうちとくに美しいものと認識されていますが この石はグリーンに、金色の花や粒が混じって きわめて美しいものとなっています ヤフオクを通して 貝沼喜久男 更紗花瓶保存会の 七里会長よりいただきました 以前、知り合いから何十年も前の石のブームのときに拾ったという 川ズレ菊花石を購入し、所有していたことがあります 横14.5センチ、高さ11センチ(台込み)、奥行き9センチ イワナ釣りに探石をかねて川をさかのぼっていって 拾ったものということでした 菊花石としてはとても川ズレがよく 小豆母岩に赤も多少混じり、色もよいものでした 手放して以来、川ズレの佳石が欲しいな と思っていましたが 今回、よい石が入手できました 横27×高さ(台込)21.5×奥8.5 およそ5㎏ 黄金花に、赤のラインの美しい石です 力石の矢島さんよりいただきました 銘 (本題) 「長岡」 (副題) 「醒ヶ井」 横56×高さ(台込)38.5×奥14 およそ35㎏ 母岩は、チョコレート色(写真より茶色っぽい)で 一部、金砂がみられます 花は透花(メノウ花)で、地肌がみえるヵ所も含まれるので 写真では、若干、ねずみがかった花のようにもみえますが 実物は全く、灰花という感じはありません 逆に、純白も混じっていて なにしろ綺麗です この石は、根尾の菊花石専門業者の杉山さんよりいただきました 石原宣夫さんのサイト 菊花石物語の 杉山コレクション http://www.kikkaseki.com/collection/page12.html に みられる石です 石原さんは 平成の最後に魅力的な菊花石が初鹿谷から産出されました 初鹿谷の菊花石は石灰質を多く含むので 小さな斑が霧のようになって母岩全体に入ります 母岩は軟らかく、弾けた花弁の波動が細く伸びて花になります 伸びた花弁に母岩が沈み 花弁を押さえたので花弁の先端が広がり 花に揺らぎを与えています そして、母岩は瑪瑙になり 花は透紅と純白の花が交互に流れて咲いています 花も色彩も全てが思考を越えている菊花石です。 と書かれています 杉山さんが 「一生、売らずに持っておいてもいい」 と思っていたという3石のうちの1石です 他の2石は、根尾の菊花石Ⅰで紹介した 淡墨桜(うすずみざくら)、錦鯉 です 淡墨桜は、花は純白ではないですが 母岩が全部 桜というじつに稀な石です 錦鯉も桜母岩の菊花石で サクラの赤が、錦鯉の形をしています 令和2年10月に 大阪府中之島図書館で催された菊花石展 の写真展示で紹介された 三蓋の松(天覧の菊花石) と 錦鯉 転写 上の「三蓋の松」の写真は 杉山さんが、石神さん所蔵の「三蓋の松」の 見学兼交渉 にいったとき (菊花石Ⅰに記述) 石原さんを誘っているので このとき、石原さんが撮影したものだと思います なお、もう一人 愛石家?(亡くなられたそうです) の方がいて、3人で行ったというお話でした 話を戻しましょう 淡墨桜は、希少価値において 抜き出た石ですが 美しさという観点において、やや落ちます 錦鯉は、希少価値に美しさを兼ねてはいるものの どちらかというと、希少価値が重きをなす石です 私がいただいた石は 杉山さんによると このタイプ (花弁の先端が四角の花およびメノウ花) の菊花石としては 最高峰である といいます とはいえ、杉山さんの評価では 両者(淡墨桜と錦鯉)に比べると 落ちます (金額的に安い) しかし、緋山の評価では この石こそ 日本人の「美」の究極 を表現した石であると考えたので いただいたわけです 花は、ほぼ純白(写真より白く見える)と言えますし 色彩、バランスにおいても 他に落ちることのない石です 但し、それだけでは、70万・80万の石だったでしょう そうしたこともさることながら ニュウが、木の幹や枝となって 三蓋の松 さえをも凌ぐ、稀有な景色をつくっているのです 三蓋の松の1つ 昭和41年、石井銘石店刊行の 石井喜右衛門著「石のこころ」より 楠木正成の旗印 菊水をもイメージできます 菊水 イラスト 月水苑の月水先生に 石に「銘」をつけていただくことは可能ですか? どうしても付けてもらいたいほどの石が一つあるのです というか、わたしのなかでは 先生の他に、この石に銘をいただく気にはなれない石です また、付けていただくさいのお礼って どれくらいかかりますか? とメールをしました 先生から 石の名前のご相談ですね さてさて、わたしは基本的に残学不才のもので 自分の石ならまだしも 人様、、、まして大事にされておられるお石様に命銘とは? 勿体ないお話ですが わたし個人としては、小森氏の命名は好きではないです なぜか? あざとい感じがしています、、、、 それに対して、初代 宗閑先生 (小林宗閑 小森ではない) の名前には力身がなく自然です ネーミングは本当に難しいものです(汗) 私感は、昔のお茶の大名物についている銘や 大名物の盆石についている銘を好んでいます~ というメールをいただきました 月水先生は 当初、盆栽界に身を置き、水石を知ったといいます 最初は、水石というより 盆石盆山に傾倒したそうです そして、そこを原点に水石へと興味を移し 揖斐川の支流本流を探石、踏破していたといいます その際いつも、探石帰りに 小林宗閑先生の愛弟子である 高橋克馬先生に、石を見てみらっていたそうです 盆石 ウキペディアより 細川流盆石 転写 盆石というと、ふつう以上のように お盆に、石や砂を用いて描く絵画 (道具としては、匙や鳥の羽根などを用いる) を言いますが 月水先生の語る「盆石盆山」というのは これとは違います 先生のいう盆石というのは 水石鑑賞の形式に近いのですが 砂を用いず、台座もつけず そのまま敷布などにすえて鑑賞するもののようです 沢庵宗彭(そうほう 1573~1646・ 沢庵和尚の名で知られる臨済宗の僧)の由来石 銘 『太湖』 唐石 (太湖石) クリックすると写真が拡大表示されます 沢庵は、仏教において これといった新らしい思想とか哲学を説いた人ではありませんが 気骨があったことで知られています また、沢庵漬けの考案者という言い伝えでも知られています 小堀遠州の由来石 銘 『片岡』 ● 小堀遠州 (1579~1647) 江戸前期の茶人。作庭家。近江の人 遠州の名は遠江(とおとうみ)守であったことからで 豊臣氏、徳川氏に仕えた 近江小室一万石藩主 千利休の孫弟子で茶道遠州流の祖 簡素のなかに洗練された優美さや清楚な美を加えた 「綺麗寂」(きれいさび)の創出者 3代家光の茶道師範 また、建築、造園にも才を発揮 本来、作事奉行は建物や庭園の設計はしないが遠州は特別で 江戸城、駿府城、名古屋城天守閣、伏見城本丸、二条城二の丸 大阪城本丸、近江水口(みなくち)城 天皇、上皇の御所としては 後陽成(ごようぜい)院御所、後水尾(ごみずのう)天皇御所 明正(めいしょう)院御所、東福院(後水尾天皇女御)御殿などを手がけた 水琴窟(すいきんくつ)の考案者ともいう なお、先生のブログに ウブの盆石盆山は、坐りがすべてといって過言ではありません そういう意味でも、完品の精品が問われるものです (絵画的な盆石で用いる石は、たいがい底切りです) とあり 先生が台座なしにこだわり 最終的に、敷布や帯の装飾になった原点に 太湖や片岡があったことを伺い知ることができます 二ホンシンギョク 絹織物による飾り またとくに『片岡』は、先生が水石に入るきっかけになった石であり 徳川家伝来の『末の松山』とともに 水石道の理想としてきた石でもあったようです 銘『末の松山』 唐石 (徳川美術館所蔵) この石(末の松山)を見た瞬間、身体に電流が走った! といいます なお、『片岡』について これに関しては、加茂川石だと言われています ですが、わたしの経験から多分瀬田川石だと思われます 当時では、瀬田川も京都石の一つですから 加茂川に化けておかしくないわけです 加茂川石というのは、産地偽装をとやかく言われていますが、、、、 日本を代表する石の代名詞が「加茂川石」なので あまりこだわるのは良くないでしょう と書かれています そして、先生は以下の詩を詠んでおられます 幾星霜かさねてきたか この石肌~ 簡略された中に 深く滋味あり 香りたつ 無骨なる 石骨~ 山であって 山でなく~ 山でなく 山でもあり 「山なる石」でなく 「石なるかな 山」 幽かなる 鈍い光が 「わたし」を とらえてはなさじ 嗚呼 うらめしきかな かた山~ 『片岡』という銘についてはなんなのでしょう? 片が「片方の」「片寄った」という意味なので 岡(山)が、中心より左に寄っていることから 付けられたなのでしょうか? 『太湖』や『片山』から考えていくと 「水石」というものは 「盆山」から分かれたのではないのか? という推測が立ちます そこで「盆山」「盆石」このあたりの歴史を調べていくと 「盆栽」と深く関わりがあることが分かります 盆栽(樹を鉢に植えて育てる趣味)は 少なくとも2500年前の中国に、すでに存在していたようです また、樹、石、苔、砂などを 盆の上に配置して、自然の景色を作る「盆景」が 約2500年前に誕生しているそうです こうした『盆景』というものが日本に導入され そこから、樹木を主役とする「盆栽」と 山形の石を主役とする「盆山」と 石と砂で景色をつくる「盆石」へと 分れていったのではないか? と考えられるのです 日本の盆栽の歴史は 平安末期に始まると考えられていますが 全日本盆栽協会のサイトには https://bonsai-love.amebaownd.com/pages/2879145/profile 江戸時代以前の盆栽の資料はとても少なくその起源を知ることは難しい と書かれています 『盆栽』という名称が浸透したのは、明治期のようです それ以前は、「盆景」とか「盆花」 あるいは「盆栽」と書いて【ハチウエ】と呼ばれていたようです 現在の盆栽の基盤となっている 針金整枝法は、明治期に開発されています 江戸時代に入り、世の中が平穏になると 貴族階級だけでなく、武家階級や庶民の間でも 様々な文化・芸術が花開きますが 盆栽もそうした一つだったようです 同サイトには 【 当初、観賞用の鉢は中国から輸入された香炉など 違う用途のものを代用されていたそうですが 園芸の人気に伴って茶器や瓦などの焼き物製造地でも 質のいい鉢が造られるようになりました 初期の時代は、大型の盆栽が主流だったようですが 参勤交代の無聊を慰めるために小鉢仕立てのものが作られるようになりました これは、今の小品盆栽の始まりといえます 】 とあります なお、盆栽には 「直幹」「斜幹」「模様木」「懸崖」など ≪樹形≫という概念があります 以下の画像(樹形の絵)は キミのミニ盆栽びより というサイトより転写です https://bonsai.shinto-kimiko.com/profile/ 右から 「直幹」(ちょっかん)、「斜幹」、「吹き流し」 「模様木」(もようぎ) 「模様木」は、幹が模様を描くように曲がっているものです 転写 右から 「根連なり」(ねづらなり)、「筏吹き」(いかだぶき) 「根上がり」、「箒作り」(ほうきづくり) 「筏吹き」は、根張りの形からの名称で 亀の甲羅から「甲羅吹き」とも呼ばれるようです 右から、「石付き」、「懸崖」 右から 「双幹」、「文人木」(ぶんじんぎ)、「蟠幹」(ばんかん) 「寄せ植え」、「株立ち」(かぶだち) 「文人木」は、文人好みの木という意味で 水墨画などに描かれている姿を思わせるものといいます 「株立ち」は、1つの株から多数の幹が立ち上がり 地際から分かれている樹形だといいます 「蟠幹」は「模様木」よりもさらに幹が曲がりくねったものです 蟠とは「とぐろを巻く」という意味で 蛇がトグロを捲いた姿 に見立てて、この名があるようです 蟠幹 転写 蟠幹についてネットで調べると 根元から幹が積雪などによって押しつぶされ 幹が前後左右に屈曲し、激しい風雪に耐えてきた迫力をもつ樹形 この樹形は自然の厳しさによって作られるので 針金掛けで人工的に試みても 自然の厳しさが感じられる樹形に仕立てることは不可能 木の素質に頼るしかなく「幻の樹形」とも呼ばれる 「蟠幹」の樹形で仕立てた盆栽を 盆栽展覧会などで観賞することができれば幸運である などとあります 真柏(上右の写真)に多い樹形だといいます なお、真柏の幹の白色に枯れた幹の部分を 「舎利」(しゃり)・「舎利幹」と言います 舎利は、仏教用語で「骨」を意味します 普通、ナイフや彫刻刀、ハンドグラインダーなど削って作られます 樹勢がよいと「水吸い」(幹の茶色い部分・生きている部分)が 生長して太くなってくるので、また削るようです それと、白色に枯れた枝(昔、枝だった部分)は「神」(じん) と呼ばれています 前述のように針金整枝法は、明治期に開発されたようですが 江戸時代すでに、文人作り タコ作り(樹形をタコの足と見立てたもの? 蟠幹のようなものか?) 篠作り(細い竹が群がって生えている様を 篠竹というので、それを模したものか? 寄せ植えに近い?) などといった≪樹形≫が確立されていたようです 一方、盆石の歴史は、細川流 盆石 のサイトによると http://www.bonseki.gr.jp/history.html 文献に、推古天皇の時代に、百済国より献上された「博山香炉」の鉢の上に 「霊山ノ形ナシタル石ヲ据エ回リニ白砂ヲ敷ク・・・」と有るそうです 但しこれは、砂よりも、山形石が主役なので「盆石」というよりも 「盆山」(ぼんやま・ぼんさん)という定義のもののようです 相阿彌(そうあみ)流盆石の歴史 http://pc-qqbox.com/kodaishi/bonseki1.htm というサイトの記事をまとめると、以下になります 盆石の技法は、推古天皇(33代・在位593~628)の頃 6世紀末から7世紀初頭にかけて日本に伝えられました これを日本の盆石として完成させたのは 天武天皇(40代・在位673~686)で 天武天皇は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したので 清見原天皇の名もあり この流派を「清原流」といいます 一説によると、天武天皇が住吉の浦に行ったさい 天皇の待臣 竹屋中納言光昭が 住吉の浦の景を、砂や石を用いて盆に表現し 天覧に供したのが最初であるとされます この中納言光昭を祖とする流派を「竹屋流」といい 日本の盆石の元流という見方もあります さらに、日野家及び風早家に養子に行った光昭の御子が それぞれ「日野流」、「風早流」を興し、盆石の流派は4派になりました ずっと時代が下がって (天武より800年以上経って) 足利将軍家に同朋衆 (将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々)として仕えた 相阿弥 (そうあみ ?~1525年・絵師、鑑定家、連歌師)が 竹屋流から分かれて 盆石の流派は5派になります 相阿弥の家系は、祖父の代から唐物奉行として仕えています この職は、中国から輸入された 絵画・磁器・漆器等の美術品を鑑定することにあったといいます さらに、相阿彌流生花(複雑な独自の曲技が特徴)の流祖でもあります また、3代将軍 義満は、金閣寺の造営にあたり 相阿弥の祖父の能阿彌に、庭や池のイメージを 盆の上に、砂や石で作らせ、造園設計の参考にしたと伝えられていて 8代将軍 義政が、銀閣寺の造営にあたったときは これを相阿弥がしたとされます 〔 但し、銀閣寺の庭園は、善阿彌と、彼の子の二郎、三郎 および彼の孫の又四郎によって作られたとされることから 相阿弥がしたのは、参考程度だったようです なお善阿彌は、河原者(かわらもの)という被差別民であったが 作庭の才から、義政に重用されたといいます 〕 銀閣寺の銀沙灘(ギンシャダン)は 石庭としての「盆山」(庭などに砂礫などを積んで築いた小さい山 また、庭などに置く山の形をした石)の傑作と言えます 銀沙灘と向月台と銀閣(観音殿) 転写 そもそも日本の庭園は 自然の景色、国々の名所、極楽浄土などを縮景したものであり 一種の「盆景」のと言えるのではないでしょうか? この場合の「盆」とは、ミニチュアを意味すると言えます 曙遠山流盆石 というサイトには http://bonseki.blog.fc2.com/blog-category-2.html 【 足利義政の時代、庭園を造る時の雛形として 庭師達が利用したものが盆石の起こりといわれています 】 と、盆石の起源が明確に書かれています 和州遠山流盆石 というサイトにも http://wasyuenzanryu-bonseki.com/bonsekitoha.html 【 盆石は石と砂で盆上に心の風景を創出する日本の伝統芸術です その起源は推古天皇(6~7世紀)の御代にまで遡るともいわれ 百済より大和朝廷に献上された石の鑑賞に始まりました 室町時代、石庭-枯山水の設計の折 その雛形となったものが現在の盆石の始まりであると考えられています 】 とあります これらの話は、天武天皇の「清原流」、光昭中納言の「竹屋流」 養子にいった中納言の2人の御子の「日野流」と 「風見流」の歴史には触れていませんが 室町期の盆石が、≪庭園を作る時の雛形≫として 興隆したという点においては 相阿彌流盆石の歴史 というサイトの話と一致しています 話を、相阿彌流盆石の歴史 というサイトに戻します 時の権力者が、ある芸事に熱心で、宣伝すると 下級の者も一芸に熟達すれば 栄達の幸運に恵まれるかも知れないとか 仲間はずれにならないようにとか思い 勉強するようになるので その文化は一気に開花するようです 同サイトによると 盆石は、義満によって一時期 栄えるも 次第に忘れ去られ、衰滅状態となったそうですが 義満の孫に当たる義政が、万芸に心を寄せる文化人で 中でも茶道と盆石の復興に尽力し、盆石文化が隆盛したそうです 義政は葛盆・丸盆等の名称や規格を定めたり 茶道具の象牙の匙(さじ)で、浪や州浜を描いた と伝えられているようです ちなみに「州浜」とは 海に突き出した「洲」(水面より高い場所)を言うようです また、この州浜は、河川より運ばれた土砂によって 河口付近にできるようです
絵巻の州浜は、非常に入り組んだ形で描かれています 岩手県平泉 毛越寺の州浜 転写 海の砂州をイメージして作られたようです 半月山展望台から見た 男体山(100名山)と中禅寺湖 転写 海ではないので、州浜ではないでしょうけど 突き出八丁出島と湖岸の入り組んだ姿は 州浜の理想形と言えるかと思います 東院庭園の州浜と、家紋の州浜 (ともに転写) 東院庭園は、平城京の庭園で、宴会や儀式を催したという 1967年に発掘調査され、1993年から5年かけて復原整備 2003年から一般公開されている 家紋の「州浜」は、州浜を上から見た景を 意匠化(デザイン化)したもので様々なものがある 州浜台と、和菓子の州浜 (ともに転写) 州浜台(州浜)は、婚礼や正月の飾り物で 州浜形の台に、松竹梅や鶴亀などを配したもの 和菓子の州浜は、切り口が州浜を上から見た景になっている 話を戻しましょう 相阿弥は、この期に乗じて、流派を興したわけですが 盆石が京都を中心に盛んになると 東山流・遠州流・石州流・利休流・光悦流・細川流・斑鳩流・飛鳥井流・ 高野流・宝生流・松本流・遠山流・生田流・宇田流の14派が分派が生じ 合計19派になったとあります 細川流 盆石 のサイトによると 細川流の祖は 足利将軍、信長、秀吉、家康につかえた 細川幽斎(藤孝)と、その子 三斎(忠興・豊前国小倉藩初代藩主) だといいます 両者は茶人であり、忠興は利休七哲の一人に数えられ 三斎は茶人としての名で 茶道の流派三斎流の開祖でもあります 江戸時代中期には、日本各地の景勝地を盆石で表現する図版の刊行 床の間の普及 といったことから、盆石は発展していったようです 床の間の床飾りとして、盆石は発展していったわけです また同サイトには、この時代、つまり江戸中期に 「石」だけの時代から、「砂」の時代へと移っていった とありますが では、それ以前の ≪細川幽斎が、現在ある様な形に完成させた≫ という話はいったいなんなのか意味不明なので、これは無視します 江戸末期、明治初年には 盆石は一時、衰退していたそうですが 盆石中興の祖と言われる 勝野博園 (細川流初代家元) により復興したと書かれています 初代家元は、色砂を使って 「盆画」というものもを考案したようです 盆画 転写 戦前の初代 や2代目の時代には、細川流は興隆を極め 海外にも進出し、会員数一万人を上回った とあります 再び話を、相阿彌流盆石の歴史 というサイトに移します 室町時代には、華道・茶道・香道等の芸能文化が 上流社会を中心に盛行し 盆石も、これらと連動し発展していったようです 盆石の展示が、茶会席と組み合わされたり 盆石の傍に、その盆石の景を詠んだ和歌の短冊が置かれる などされてきたそうです このように興隆、発展してきた盆石も 明治の末には、相阿彌流、石州流、細川流、高野流だけが残り 他は消滅してしまったとあります (前述の和州遠山流、曙遠山流というのが入ってませんが そこはよく分かりません) 同サイトによると 消滅した流派の独自の技法や礼式を知ることはできないが 遠山流については、白い荒砂を用いること 色砂を用いること 小さな琥珀色の瑪瑙石を用いること 他にも多くの装飾物が色をつけて用いられることで 全体の様相がとても綺麗であったと伝えられている ということです 相阿彌流は、江戸時代に北陸へと伝わり 極めて近年まで 富山県小矢部市や金沢方面で盛行し 二派に分裂するなどしたようですが、先達者が次々に亡くなり 現在は、消滅寸前にあるようです なお同サイトに 【 広義の相阿彌流盆石には 盆山 …… 遠景だけのもの 盆石・盆山石 …… 遠・中・近景を含むもの 盆庭 …… 茶花を植え、近景だけのもの 盆池 …… 水を注ぐもの 仮山盆 …… 中景だけのもの がある 盆山・盆山石・盆石の名称は、たごたび混用されて用いられているが 相阿彌流では盆石と盆山石とは全く同義である 只、盆山だけが区別されている 】 と書かれてあります 「広義の」というのは ≪床の間飾りや茶席に用いる通常の盆石だけでなく≫ という意味だと思います 「盆庭」というのは 【 盆庭は其の後発展して盆景となり 多くの天才達により益々精緻な技巧を加え 盆景の技芸も三十一派に分裂するに至った 相阿彌流の盆庭は盆石の極秘伝の伝書中に打ち方の指示があって 庭石の配置等を図解して色々と規制しているのを見ると 庭園の設計模型として実用的に利用される機会も多かったと思はれる 】 と書かれていることから 作庭のひな型として作られる盆石なのでしょう 「盆池」や「仮山盆」というのも作庭に関わる ひな型なのでしょうか? いずれにしても、流派によって 「盆石」「盆山」「盆景」という言葉に 様々な意味をもたせ、複雑化させたことが これらの実体と歴史を曖昧模糊とされてしまった 原因だと思います では、水石の起源は、どこにあるのでしょうか? 「末の松山」には 月水先生が水石の理想と考えた 徳川家所蔵のものの他に 西本願寺所蔵の伝承石があります クリックすると写真が拡大表示されます 第6回日本の水石展(2019年・東京都美術館・日本水石協会主催) に特別出品されたときの本(記念帳)にみられる写真ですが 【 各地に伝承される歴史的盆石群の中でも 本石ごとき茶会記などによる1500年代よりの実証の足跡を持つものは少ない 明治期に総称として統合された「水石」は 約500年の歴史において東山文化に端を発する茶会や 書院飾りの設(しつら)え道具として 「盆石」と言う呼称での観賞時代が長く続いた 渡来唐物として珍重された本石と砂張盆は、伝承される人物像と共に 日本の水石文化の象徴的存在である 】とあります しかし、この話だと2つの疑問が残ります 相阿弥流の祖 相阿弥が没したのが1525年で 細川流の祖 細川幽斎の生没年が1534~1610年です およそ西暦1500年から1600年にかけての100年間に 19派になるほど、盆石という芸事は、隆盛を誇っているわけです するとこの時代、「盆石」と言えば ≪お盆に石と砂で景を描いくモノ≫という概念が確立していた ということになりますが この「盆石」との関係はどうなりますか? というのがまず1点 「水石」については、【 日本には室町時代あたりに 禅の文化といっしょに入ってきたもので 「水をかけて観賞するから水石という」というのは間違いで もとは「山水石」と呼ばれていた 】 というのが、定説化されています 明治期に「水石」という言葉によって統合した となると「盆石」と「山水石」を統合して 「水石」という概念をつくったということになりますが 「山水石」というのは どのようなものだったのでしょうか? というのがもう1点です なお、室町3代将軍 義満の時代の「北山文化」が 義満が建てた北山山荘(金閣・京都の北にあることから) を中心にして栄えたのに対し 8代将軍 義政のそれは 義政が建てた東山山荘(銀閣・京都の東にあることから) を中心とすることから「東山文化」といいます 前者は「能」や「狂言」などを特徴とし 後者は「水墨画」や 「書院造」〔現在の和風建築の原型とされる 障子、襖、床の間などがある〕などを特徴とします 慈照寺(銀閣寺)の東求堂(とうぐどう) 転写 東求堂 同仁斎の「書院造」 転写 書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称です 東山文化は、「侘び」「寂」「幽玄」に集約されると言ってよいです また北山文化のころの唐物に対する執着が弱まり 和物に対する関心が高まってきたことも大きな特色とされています 日本の水石の歴史は 南北朝時代に中国から伝わり 東山文化の影響で日本独自の側面を確立させた と言われています (日本水石協会) 以上のことから考えていきましょう 本願寺所蔵の「末の松山」について 【渡来唐物として珍重された本石と砂張盆】とあります 室町幕府の職制に、唐物奉行というのがありました 前述しましたが、唐物奉行には同朋衆が任ぜられ 明、朝鮮、琉球から輸入された美術工芸品の鑑定をしたわけです このようなことから水石の原点とみられている 『末の松山』・『太湖』・『羅浮山』などは 禅文化とともに導入されたというより 一種の美術品(舶来品)として輸入された と考えるほうがつじつまが合います (『片岡』については、日本の石とされる ) また、そもそも推古天皇の時代に 「霊山ノ形ナシタル石ヲ据エ回リニ白砂ヲ敷ク・・・」 といった「盆山」が伝っています こうした「盆山」は 相阿弥流や細川流などといった盆石の各流派において 「広義の盆石」の中に組み込まれ、存続してきたと考えられます 『末の松山』・『太湖』・『羅浮山』といった存在は そうした流れの上に、唐物として輸入されたということです 相阿弥の家系も、祖父以来、唐物奉行であったことからも これらが「広義の盆石」「盆山」の舶来品であったと想像できます つまり『末の松山』・『太湖』・『羅浮山』といった存在に 日本の≪水石の原点≫があるというのではなく もっと古い「盆山」にこそ、それがあると考えるべきです そして、こうした盆山に 東山文化の「侘び」「寂」「幽玄」といった 美意識が導入されたことが 「水石」という文化を誕生させるきっかけとなった と思われます また『末の松山』・『太湖』・『羅浮山』 あるいは『片岡』に象徴される「盆石」を 観賞する形式に、流派の存在なかった ということからも これらは、舶来品あるいは骨董品として 大名やそれに準ずる人たち あるいは大寺院、またあるいは文人墨客によって所蔵され ときに茶会などに供されたりしてきたのではないのか? という推測が成り立ちます 一方、古谷石の鑑賞は、加茂川石より古く 江戸中期の正徳・享保(1711~36)の頃からである とされていることなどから 台座に石を据える文化は、この頃に成立したと思われます こちらが「山水石」と呼ばれていたのかもしれません そして明治になり、これらが統合され ≪台座に石を据えて鑑賞する≫ ≪水盤に砂を引いて石を飾する≫ という2つの形式 すなわち「水石」という形式・文化が 確立したのではないのか? と考えられるわけです つぎに、水石と日本庭園の共通する美意識 について考えていきます ウキペディアの 庭園史 平安期以前 によると 日本書紀に、古代の庭園に関する記事がいくつかみられるそうですが 中国の典籍からの引用も考えられ、疑問の点もあるようです また【 古墳時代には、庭園は古代から仏教世界の中心とされてきた 須弥山(しゅみせん)を表す石の山のまわりに営まれているとされる この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている 】 とあります 〔 なお、須弥山(梵語のスメールの音写)は 古代インドまた仏教の世界観において世界の中心に存在する巨大な山 〕 他のサイトも総合すると 日本に庭園技術が伝えられたのは、飛鳥時代で 日本書紀 推古20年(西暦612年)の記述あたりから 史実とみられているようです 推古天皇の時代、百済からの渡来人が 「呉橋」(くれのはし・欄干のある反り中国風橋?)と 「須弥山(しゅみせん)の像」を作ったとあるそうです この時代の庭園は、真四角の池に 須弥山の石像を置き、中国風の橋をかけるといったもので 「日本庭園」らしさがあまりなかったようです 代表的な韓国庭園 朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮 景福宮(キョンボックン・ソウル市) 風水説に基づき 北岳山(プガクサン・白岳山・342m・花崗岩の山) の麓に築かれたという 景福宮は、朝鮮王朝の祖 李成桂(りせいけい)により 1395年に築かれている 1592年の文禄の役において 国王が宮殿から逃亡し、治安が乱れると 秀吉軍入城を前に、朝鮮の民衆によって略奪、放火され焼失 その後は離宮の昌徳宮が正宮に使用され 約270年の間再建されなかった 1865年に再建され、再び正宮となる 1910年の日韓併合後 朝鮮総督府(日本が朝鮮を統治するために設置した機関) によって、8割以上が破却 宮殿正面には総督府庁舎が建てられた 2006年、旧総督府庁舎が取り壊され、復元事業が開始 景福宮の庭園 転写 景福宮の庭園 転写 昌徳宮の庭園 転写 昌徳宮(チャンドックン・ソウル市) 1405年に、景福宮の離宮として創建 文禄の役(1592年)で、朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり焼失 〔朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』に 民衆によって略奪・放火されたと明記されている〕 王朝末期の1868年に景福宮が再建され、離宮となる 日韓併合後、李王となった純宗の住まいとなった 造建造物は1614年に再建 ピウォン(秘苑)は1623年に再建されたもので 代表的な韓国庭園といわれている 中国四大庭園 中国四大庭園の中でも最高峰とされる 拙政園(せっせいえん・蘇州) 転写 明の時代の1510年頃(日本では室町後期にあたる) に役人の職を辞した王献臣が故郷に戻って建造 拙政園 転写 なお、蘇州古典園林(そしゅうこてんえんりん)は 江蘇省蘇州市にある歴史的な庭園の総称 蘇州は、東洋のベニスともいわれる 中国四大庭園 留園(りゅうえん・蘇州) 転写 個人庭園として、清の時代の1593年に造園 日本では安土桃山時代にあたる 留園 転写 奇石(太湖石)が多いことで名高い 中国四大庭園 頤和園(いわえん・北京) 転写 1750年、清朝6代皇帝 乾隆帝(けんりゅうてい)が、寺院を改造 現存のものは1903年に復旧したもの 「昆明湖」(こんめいこ・人口湖で東京ドーム62個分の広さ)が3/4を占める 中国四大庭園 承徳避暑山荘 (河北承徳市) 転写 完成まで90年間を費やした歴代皇帝の離宮(1792年に完成) 清朝の皇帝が夏季に避暑し、政務をとった 日本の庭園の歴史に話を戻します 奈良時代に入ると曲線主体の自然の形をした池が造られ 池への水の流れを、川や滝として見立てる形になり また、石も自然の形で用いられるようになったといいます 以来、直線による造景はほとんどなくなり ここに「日本庭園」と呼べるものが誕生したとされています 水石との関連で重要な1つが 【石も自然の形で用いる】 ここです また、「日本庭園」と一口に言っても時代による違いがあり 寺院や住宅の建築様式に大きく関係してくるといいます 飛鳥・奈良時代は、中国の仏教建築の様式と技術を 朝鮮半島を経由して取り入れた時期です 平安時代の文化を「国風文化」 (遣唐使を廃止にし、それ以降、日本風の文化が流行) といい 日本庭園の歴史を 平安時代から記述しているサイトがほとんどです この時代の建築を「寝殿造」といいます 寝殿造の特徴は 貴族の屋敷の様式であること・ 屋敷には、20人から30人ほどの貴族が住んでいたこと・ 「コ」の字形に建物が配され 中央に「寝殿」と呼ばれる主人が居住する場所があること・ 部屋は、長い廊下でつながり 壁はなく、屏風やすだれで仕切られていたこと・ 貴族たちが宴を開くために開放的な造りになっていたこと・ 板の間が基本で、畳は単体で用いる程度だったこと・ 庭や池が組み込まれ、庭では蹴鞠、池で舟遊びをしていたこと などが挙げられます 平安時代の庭園は、貴族が池泉に船を浮かべて周遊した 『池泉周遊式庭園』から始まり 後期には、仏教の≪末法思想≫が広がり 平等院や毛越寺に代表される極楽浄土を表現した 『浄土式庭園』が作られたとされます 末法(まっぽう)思想というのは 正法〔釈迦の教え(教)が正しく修行(行)されている時代で 悟り(証)を開く者が存在する時代〕 像法〔像とは似るの意味で、教がありそれに基づく行がなされているが 証を得る者がいない時代。次第に形骸化されてゆく時代〕 末法〔教はあっても行はなされず、証を得る者もいなくなった時代〕 の3つの時代を説き 今は末法時代だから、釈迦の仏法には功力(くりき)がない という考えです 鎌倉仏教の法然(ほうねん・浄土宗の祖)、親鸞(浄土真宗の祖) 日蓮(日蓮宗の祖)は、末法思想をよりどころとして 新宗教を興しています 例えば、親鸞の有名な 「悪人正機」(あくにんしょうき)という思想は ≪末法〔人間の心が邪悪となり、釈迦の仏法を修行する者がいなくなった時代 日本では平安時代中期より末法に入るとされた〕に生まれた者は 本質において皆、悪人である ゆえに、なまじっか自分を善人だと思い込み 自力信仰に励む者より、自己の本性が悪であると自覚して 阿弥陀の本願に身をゆだねる者の方が、極楽に近い存在である≫ ≪末法においては、念仏のみが唯一救済の道で 戒律に執着する伝統仏教者は偽善者であって 罪悪に苦しむ凡夫こそが、阿弥陀の救いを受ける 正機(教法を正しく受け入れられる機根・能力)をもつ者である≫ というものです 浄土教の思想は 法然が、称名念仏(しょうみょうねんぶつ・ 南無阿弥陀仏と唱えること)を 広める以前から、日本にあります 但し、日本でも中国同様、当初は 心に、阿弥陀如来を観じる「観想念仏」が主流で 奈良仏教(法相宗)・平安仏教(天台宗)で、行われていたといいます また、太鼓・鉦(かね)などを打ち鳴らし 踊りながら念仏を唱える 「踊り念仏」の起源とされるのが 平安時代中期の僧 空也(くうや・903~972)です 空也は、浄土教の民間布教の先駆者とされていますが 伝説的なところが多いようです 平安中期の天台増 源信〔恵心僧都(えしんぞうす)・942~1017 比叡山中興の祖 良源の弟子〕は 「往生要集」 (西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生すべきことを説いたもの。3巻) を著し 藤原道長の帰依をうけるなど 浄土教を、平安貴族に流行させます その影響で、平安時代は 極楽浄土や阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩) を表現する建築様式や美術様式が発展しました そうした代表が、宇治の平等院や 平泉の中尊寺・毛越寺(もうつうじ)です 平等院の浄土式庭園 転写 平等院の浄土式庭園 転写 毛越寺の浄土式庭園 転写 なお、「往生要集」で説かれた 地獄・極楽の観念や 厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど) 〔この娑婆世界は穢れた国土でありいとい離れるべきある・ 阿弥陀仏の浄土をよろこんで願い求めるべきである〕の思想は 貴族・庶民らに広く普及し 後の文学思想にも多大な影響を与えたされます なお、源信も「観想念仏」を重視したものの 一般民衆のために「称名念仏」を認め、知らせたといいます 鎌倉時代に入ると禅宗が興隆します 日本の臨済宗は、鎌倉・室町時代を通じて幕府が保護したこと また禅の宗風が質実剛健を旨(むね)とする武士の気質に合っていたこと により大いに興隆し、文化の中心を担いました この時代、書院建築〔現在の和風建築の原型とされる 障子、襖、床の間などがある〕が中心となり それに合わせて、部屋から座って眺める「座視観賞式庭園」が誕生しています ちなみに、ウィキペディアによると ≪武家造≫は、鎌倉時代の武家住宅の様式として想定されたもの しかし、武家も元は貴族の出自を持ち その邸宅も寝殿造を簡素化したもので 独自の様式とは捉えないのが、建築史(住宅史)の通説になっている 現在では、この語(武家造)は使用されず、一般に「書院造」の中に含めて説明される とのことです なお、書院造は、室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式 とされるので、鎌倉期は、寝殿造から書院造への移行期 と言えるかと思います そして、室町時代には 「枯山水」〔水を用いず石と砂によって山水の景を表現した庭園〕が生まれ ここに、日本独特の庭園文化が完成したとされます この枯山水は、平安中期の記録に、"枯山水(こせんずい)"の名でみられ "池もなく遣水(やりみず)もなき所に石を立つること"とありますが この意匠は、室町時代とくに禅宗寺院で頂点を極めます 竜安寺 転写 竜安寺 転写 竜安寺 転写 大徳寺 転写 大徳寺 転写 大徳寺 転 日本庭園の特徴は 曲線による造景と 「左右非対称さ」にあるとされています これに対し、フランス、ヨーロッパの庭園は 直線と左右対称を基本としています フランスのベルサイユ宮殿の庭園 転写 フランスのベルサイユ宮殿の庭園 転写 フランスの「城の庭」として有名な ヴィランドリー城の庭園 北ドイツ ハノーファーにある ヨーロッパで最も美しい庭園の一つとされる ヘレンハウゼン王宮庭園 「照葉樹林」による森は 神社の≪鎮守の森≫以外には ほぼ存在しないという話も興味深いですね 鎮守の森 転写 1982年(昭和57)の環境庁発表によると 日本列島の照葉樹林は森林面積の0.6%にすぎず ほぼ全滅状態にいたったとされています 自然の森の力によって維持される森 自然の秩序のもとに保たれいく森を「天然林」(一次林)と呼びます 天然林は、関東以北では「落葉広葉樹林帯」になるそうです ミズナラ、カシワ、クリ、クルミ、クヌギ、コナラなどの森になるわけです 関東以南では「照葉樹林帯」(常緑広葉樹林)になるといいます シイ、カシ、クスノキ、ツバキなどの森になるのです これに対して、伐採や火災によって天然林が失われた後 自然の力により再生した森林を「二次林」と言います また、人の手で種を播いたり、苗木を植栽して育てている森林は 「人工林」と言います 関東平野における極相は照葉樹林ですが 山火事や伐採のあとは 二次林としての雑木林(ぞうきばやし)ができるといいます 武蔵野の雑木林 転写 雑木林は、落ち葉や枯れ枝を採り続けることにより はじめて維持されるそうです 人によって管理されてはじめて維持されていくのです 放置しておくと、天然林となります 里山の雑木林のの機能が失われつつあり 各所で常緑広葉樹林が復活してきているとされます なお、鎮守の森でも、明治神宮の森のように 作られたものもあるようです 転写 明治神宮の鎮守の森は 台湾などからの献木で 持ち込まれた樹木もあるそうですが 基本方針としては 本来、その地にあるべき植生(潜在自然植生)に配慮し 将来的には天然更新によって、自然な鎮守の森らしくなるよう 計画されて作られたといいます さて、遠山石の理想は、左右 3対7あるいは7対3の位置に 山が配置されることとされます 多摩川石 シンメトリー(左右対称)の美を具現化したものには 宇治の平等院や、国会議事堂がありますが 3対7の美、中心をずらした美については 長野の月水苑の月水先生がブログで バレリーナの写真をもって説明されています この水石において 「左右非対称さ」を理想とする美意識は 日本庭園との共通性がみられます 桃山時代になると、茶の湯の発展とともに 限られた狭い空間に、意匠を凝らした「露地」が生まれます 妙喜庵 国宝 日本最古の茶室建造物であると同時に 千利休作と信じうる唯一の現存茶室 なお、日本の家屋の歴史の流れは 「寝殿造」「書院造」「数寄屋造」に区分されています 数寄(すき)とは、和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり 数寄者(すきしゃ)は、風流、とくに茶の湯を好む人をいいます 数寄屋というのは、もともと母屋とは別に建てられた小規模な茶室のことです 数寄屋造は、書院造を基本としつつも 土壁を用いるなど茶室風な感覚を取り入れた建築様式です 江戸時代以降、数寄屋造りが、茶室から住宅へと波及するにあたり 高価な材料、高い工法技術が用いられるようになり 現在では数寄屋造りは、高級建築の代名詞になっています 簡素かつ古色を帯びたものに そこはかとない趣きを感じる「侘び寂」という概念自体は 室町時代から茶の湯や俳句の世界で重視された美意識のようですが 日本の伝統的な農村の景観と 清貧という精神性を母体として生まれたものでしょう また、日本の自然のモノというのは 鳥でもスズメに象徴されるように派手さがありません 古色のついた多摩川石 古色を帯びた多摩川石 中国人も石を好みます 北宋の第8代皇帝 徽宗(きそう)の「花石綱」 (かせきこう・綱は輸送隊の意)は有名ですね 徽宗は、花(珍木)や石(奇岩石)を、地方から都に運ばせました ● 徽宗(1082~1135) 道教にふけり国政が乱れ、 金の南下により長男の欽宗に譲位 27年 再度の金の侵入により欽宗ら皇族とともに捕虜となり、配所にて没 政治的才能はなかったが、全国から書画や骨董を収集 芸術家の育成にもつとめ、美術の黄金時代を築いた 自身も書や画で有名 徽宗の花鳥画は日本の大名たちにも愛され 特に桃鳩図(ももはとのず・日本の国宝)は、日本人にもよく知られている 獅子林(蘇州古典園林の1つ)の太湖石群 転写 拙政園のすぐ南にある庭園 小さな庭園だが、中国庭園の傑作とされ 蘇州四大庭園の一つに数えられる 1342年、弟子が 高僧・天如禅師ののために造営 水石は、古代中国の唐あたりに起源があるとされますが 日本で独自に発展してきました 中国では怪石、奇石が観賞中心ですが 日本人は、遠山(山形)や土坡(どは・平地)など 穏やかなものをより好みます 神居古潭石 (かむいこたんせき) 山形土坡 銘「さいはて」 それから、『侘び寂』とともに 日本人特有の美意識である 『雅』は、華やかではあるが どこか清楚で上品なさまを感じさせる「美」です この概念(共通意識)は「宮ぶ」から出た言葉で 平安時代に京都を舞台として展開された 貴族文化の美意識の核心をなしたとされていますが その原点は、満開の桜や、もみじの紅葉に代表される 日本の四季に通じています 話を庭園に戻しましょう 江戸時代になると 各藩の大名が競って江戸や地元で庭園をつくり 造園技術は発達し、日本庭園築造技術が頂点をなしたとされています 水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園、高松の栗林(りつりん)公園 熊本の水前寺公園などが、その代表です また江戸の町(東京都心)は、7割が武家の土地で 大名屋敷は、面積の半分を占め 築かれた大名庭園の数は、数百とも、千に達していたとも言われています (都内に現存する大名庭園は、らしきものを含めて23ヶ所 ひょっとするとを含めて25ヶ所しかないらしい) 大名庭園では、大池泉(だいちせん)が復活し 庭園の中を回遊する「回遊式庭園」が発達していきました 水前寺公園 転写 クリックすると写真が拡大表示されます ここでようやく、菊花石の「銘」に話は戻ります 月水先生に、菊花石の画像を送ると以下のような メッセージをいただきました 綺麗では片付けられないほどウットリ するくらい綺麗ですねー 有名な絵画、山下画伯大作「長岡の花火」のようです クリックすると写真が拡大表示されます わたしが所有する石であれば 迷わず【長岡】にしますね わたしの大好きな大名物の盆石 『片岡』みたいな感じや響きが最高です♪ でも、菊花石っぽくないので 人によっては、小森氏のような 漢文 (小難しく、堅苦しい …) や 禅語を引用したものが良いと思うのではないですか? それから醒ケ井(さめがい)の梅花藻(バイカモ)から 【醒ヶ井】も良いと思います ただ綺麗なだけの菊花ならいくらでありますが この菊花石は、綺麗だけでなく 非常に[印象的]な絵画を彷彿します 銘にするなら、単なる形容詞的であったり 短絡的なものでもなく、何か引用的でない 《粋》さを感じ取れる スッキリしたネーミングこそ、生きてくるのではないでしょうか おそらく、知識人であれば 「長岡」で、ピンッ!と来るし 「醒ヶ井」も、意味がわかってくるはず ただ、素人には難しい ならば花のイメージから 清 瑞 秀 麗 韻 香 雅 などが当てはまりますので 『華風瑞麗』 『雅韻瑞麗』 『清香典麗』 でもいいかと思います 『白眉秀麗』や『雅風秀麗』などもいいかもです なお、これらはどこかの引用文ではありません 『清香典麗』が良いでしょうか? 厳かさや、秀美さが、際立ちます 品の良さからも 典麗は、あてはっています 『雅韻瑞麗』も、個人的には好きです どこかに【瑞香】も入れてみたくなりますね! 主題【雅韻瑞香】 ※韻が良いと雰囲気上がりますよね! (石の景色にリズムや流れがあると、石の雰囲気が上がる) 副題【長岡】あるいは【長岡の花火】 のような銘の付け方で、どうでしょうかね? 遊び心や、絵心で言えば 画伯の「長岡の花火」です! 粋の域です わたしが石に興味をもった当初 沢庵和尚の「太湖」 そして「片岡」、これらはどこからどのように 名前がつけられたのか?さっぱりでした ですが逆に、ありふれたインパクトのない 漢文の引用や禅語より 「太湖」や「片岡」は、斬心で記憶にとどまっています あの名画を彷彿させる [長岡]ナガオカという銘は 「この菊花石には、長岡という銘がついていますが いったいどこから来た名前ですか?」について 問題想起させて 尚且つ、説明すれば、いつまでも記憶に 止まってもらえるのではないでしょうか!! ということで 主題 【長岡】 副題 【醒ヶ井】 にさせていただきました 醒井(醒ヶ井 さめがい・滋賀県米原市)は かつての中山道の宿場で 「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」 の構成文化財に選定されています 加茂神社にある 日本名水百選の「居醒(いさめ)の清水」は 日本武尊(ヤマトタケルノミコト) が伊吹山の荒ぶる神と戦って 傷ついた体の毒を洗い流した霊水であると伝えられています 醒井の湧水で体を冷やすと たちまち体の調子が良くなったという伝承もあるそうです 居醒の清水 転写 ● 日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) 12代 景行天皇の皇子・14代 仲哀天皇の父で 九州や東国を平定した英雄 東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り 叔母で斎宮の倭姫命より、草薙剣(くさなぎのつるきぎ)を授かる 草薙剣は、もともとは、スサノオノミコトが ヤマタノオロチを退治したとき オロチのしっぽから出てきた剣で 皇位継承の象徴である三種の神器の1つである 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいったが 日本武尊が、この剣で、敵が放火した草を なぎ払って難を免れたため草薙剣に改められたという 東国を平定した日本武尊は この剣を妻 美夜受比売(みやずひめ)に預けたまま 伊吹山(岐阜・滋賀県境1377m・日本100名山)の神を 素手で討ち取ろうと戦うが 神の降らす氷雨に失神し、敗れて山を下りる 伊吹山 転写 しかしすでに病にかかっていて 伊勢国能褒野(のぼの・三重県亀山市)で死去した ちなみに「三重」という地名は 古事記によると ミコトが、尾津前(桑名市・日本書紀では尾津浜)から 能褒野へ向かう途中、三重郡(四日市市)で ≪『吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり』 (私の足は、三重に曲がってしまったと思えるほど、非常に疲れた) とのりたまいき (と言ったので) 故、其地を號(ごう)けて (このため、この土地を称して) 三重と謂ふ≫ とあります また草薙剣は、伊勢神宮に戻ることなく 美夜受比売と尾張氏が尾張国で祀り続けたとされ これが熱田神宮の起源とされています 醒井宿を流れる地蔵川は この「居醒の清水」などからの湧水によってできた川です 醒井宿と地蔵川 転写 水温は年間を通じて14℃前後と安定していて 貴重な淡水魚である「ハリヨ」も生息しているそうです 地蔵川は、天野川に入り、そして琵琶湖へと注ぎ やがて海へと流れていくといいます 地蔵川のもととなる地下水は 霊仙山(りょうぜんざん・ 鈴鹿山脈の最北に位置する標高1094mの山)からくる とかいう話もあります 鈴鹿山脈 霊仙山 転写 この醒井の地蔵川は 水中花の「梅花藻」(バイカモ)で有名です 梅花藻は、キンポウゲ科の多年草 5月中旬~9月下旬まで咲き 7月下旬~8月下旬にかけて見頃だそうです 醒井の地蔵川の梅花藻は 川端に咲く百日紅(サルスベリ)の落花の時期が重なり 梅花藻の白と百日紅の赤が 見事な色彩を演出します 百日紅の落花が進むと、赤が多くなっていくそうです 以下 転写 ちなみに「梅花藻」といえば 関東では、富士の雪解け水が湧き出ることで知られる 柿田川(柿田川湧水群・静岡県清水町)の 三島梅花藻(ミシマバイカモ)が有名です 柿田川 転写 柿田川公園第一展望台より 湧水の吹き出し口 (望遠撮影) 転写 柿田川公園第二展望台より 転写 YouTube リンク 【自然浴60分】柿田川公園 / 静岡県駿東郡清水町 https://www.youtube.com/watch?v=fYruQX_JKsk 柿田川は、東洋一の湧き水量を誇るらしいです 水中に咲く 三島梅花藻 転写 自然環境で現存するのは柿田川のみとされます 三島梅花藻は 1930年に、三島市立公園「楽寿園」(三島駅前)の 小浜池にて最初に発見されたとそうです 小浜池は、富士山からの地下水が湧出してできる池です ウキペディアによると 三島梅花藻は 1950年代中頃に、三島市の繊維産業発達に伴い 地下水が大量に消費され、生息域の水源が涸れたり 生活排水流入による環境汚染により、一度は絶滅したと考えられた とあります 小浜池 転写 かつては豊富な湧水をたたえ 「水都 三島」の象徴であったそうですが 最近は枯渇気味の年も多かったといいます 小浜池 転写 ところが2020年は、9年ぶりの満水 57年ぶり水位2メートル超え 過去最高の水位を記録したそうです 源兵衛川の三島梅花藻 転写 源兵衛川の三島梅花藻 転写 柿田川は立ち入りが禁止されていますが 三島梅花藻は、源兵衛川下流(水の苑緑地)などで見ることができます 源兵衛川は、楽寿園の小浜池の湧水が水源で 市街地を通り、中郷温水池まで流れる全長1.5kmの川です 広瀬橋より下流は、中郷地区の農業用水のために 人工的に作られた川だといいます 川の名称は、この農業用水路の計画を立て 河川工事に深い関わりをもった寺尾源兵衛 に由来するそうです 前述したように、1960年代からの都市化・工業化により 水源(小浜池)の湧水が減少すると、源兵衛川は、渇水期を迎えます 梅花藻は、水温が一定で、きれいな水を好みますが この渇水期(1980年代)は、家庭雑排水の垂れ流し、ゴミの放置により 汚れた川、ドブ川の象徴的存在になっていたといいます 2000年代になり、水辺環境の再生事業が進み、清流が復活 環境省の「平成の名水百選」(2008年)にも選ばれ 5月中頃からは、ホタルが観察できるそうです それから、富士山は10万年ほど前から何度も噴火を繰り返し 約1万年前に現在の形となったようですが 専門家は、現在の形となった富士山を 以前の山(古富士火山)と区別して「新富士」「新富士火山」と呼んでいます ちなみに火山の山は、噴火によって溶岩が流れ その溶岩が積み重なってだんだん高くなってできたものです 富士山が代表で、3回の爆発によって噴出した 溶岩が積み重なってできた山だといいます 富士山の雪解け水や降った雨は 亀裂やすきまの多い新富士火山の溶岩や火山灰 に染み込み、ろ過されて 水を通しにくい古富士火山の地層の上を 地下水として流れているといいます 伊豆半島ジオパーク推進協議会のサイトより 地下水の流れは、麓に至り、小浜池 湧玉池〔わくたまいけ・富士山本宮浅間大社の境内にある池 富士宮市の中心部を流れる神田川(富士川水系)の水源〕 柿田川湧水群、富士五湖、忍野八海 白糸の滝(富士山の湧き水が岩壁のあちこちから流れ落ちる 幅150m、高さ20m)などとして湧出してくるわけです 湧玉池 転写 忍野八海のシンボル的存在の湧池 転写 崖から直接 水が流れ出る不思議な 白糸の滝 (静岡県富士宮市) 転写 湧出まで相当の年月がかかるようですが 地質の複雑さから その年数は、数年から百年以上まで諸説あるようです 柿田川については かつては、富士山に降った雪が 300年かかって湧き出るなんて話もありましたが 10数年~20数年のようです 国土交通省 富士砂防防事務所のサイトに 以下のように書かれています では、地下にしみこんでから どれくらいかかって湧き出すのでしょうか? それを知るのには、水素の同位体である トリチウムの濃度を調べることで可能である トリチウムは、放射性元素で 大気中では、互いに混ざり合っていて ほぼ同じ濃度組成だが 一旦、地下に浸透して地下水になると 半減期約12年の割合で崩壊し その濃度は次第に減少していく なので地下水の年齢を出せる トリチウムの濃度測定によると 湧玉池の湧水は、およそ0~6および10~20年前 小浜池、白糸ノ滝、柿田川の湧水は いずれもおよそ13~23年前の年数の範囲に当てはまる このようなことから平均すると 15年前後の年数を経た水であると考えられる ということです 公益社団法人 日本地下水学会のサイトにも 以下のように書かれています 今日は様々な同位体を用いた滞留時間の研究がなされており 一例として紹介しますが、トリチウム(半減期12.3年の水素の同位体) などを使った研究では 神奈川県の秦野盆地(更新世の扇状地砂礫層)の地下水は7~8年 富士山の山麓(約1万年前の溶岩流)の湧水は 数年~十数年かかるとされています つまり 「柿田川の水は100年(あるいは300年)前の 富士山の雪解け水である」 というのはちょっとなさそうです 富士五湖についてもふれておきます 富士五湖は、富士山と御坂山地の間の谷が 富士山の噴火による溶岩によって せき止められてできた堰止湖(せきとめこ)だそうです 9000年程前の噴火で「宇津湖」と「剗(せ)の海」とが生まれます なお、紀元前3000年以前にあった せの海よりさらに古い巨大な湖は 古剗の海(こせのうみ)というそうです 延暦19年(西暦800年)の噴火の溶岩流による分断で 宇津湖は、「古忍野湖」と「山中湖」となり せの海から「本栖湖」が分かれます さらに貞観6年(西暦864年)の噴火で せの海は「西湖」と「精進湖」になりました また、古忍野湖は、徐々に干上がり 忍野盆地となりました 忍野八海は湖であったときの名残りだそうです 河口湖は「大田川」(せの海から出ていく川)が 貞観6年の噴火の溶岩流(剣丸尾溶岩流)によって 堰き止められてできたといいます なお、西湖、精進湖、本栖湖の3湖は水位がほぼ同じで 増水・減水が同じように起こることから 地下水を通じてつながっていると考えられています 富士五湖それぞれの標高と水深と水量 転 写 紫の部分が溶岩で 右の大きな紫が、青木ヶ原溶岩です 興味深いのは 大きさ(面積)順では、山中湖(6.8平方キロメートル) 山中湖(5.7平方キロメートル)、本栖湖(4.8平方キロメートル)と 本栖湖は3位なのですが、水深、水量では圧倒しています 鵜の島は河口湖の小島です 転 写 竜ヶ岳(本栖湖近くの山・1485m)より見た富士 また、山中湖は、五湖で唯一流れ出る川(桂川)を持ちます この「桂川」は、富士吉田市や都留市などを通り 神奈川県の相模湖まで流れています 菰釣山(こもつりやま・丹沢山塊・1379m)山にて 富士の手前、中央左が山中湖 高指山(たかざすやま・1174m)にて 富士と山中湖 御坂山塊最高峰 黒岳(1792m・日本300名山)より富士 眼下に河口湖 富士五湖では 河口湖から見た富士が、一番 均整がとれていて 河口湖が早くから観光地化が進んだことも納得いきます 祝い菊 (桜石の母岩) 横24.5×高さ(台込)28×奥17.5 11.5㎏ この石ならば、≪桜石の母岩≫と言えるかと思います 岐阜の杉山さんより入手しました 銘 江戸風情 長野の収集家で、菊花石の販売もなされている 矢島さんより入手しました 雷光石系統の母岩ではないかということです 左下に、雷光の模様がみられます ≪江戸風情≫の銘は、2010年に突然変異によって誕生した アサガオの品種名からとりました このアサガオは、白色と、紫色またピンクのストライプ模様が美しく 単色の花を咲かせることもあるといいます 横36.5×高さ(台込)22×奥11 およそ9㎏ 花は、純白ではないですが白にピンクが出ています 近くで見ると、この写真ぐらいにピンクです 画像では、なかなか実物と同じ色を出せません この写真は、若干、青を強めて撮影しました 下は、赤を若干、強めてます 実物は、両者の中間ぐらいでしょうか 横11.5×高さ(台込)30.5×奥4 1472g この台だと込みで28.5センチ この石は、ヤフーのオークションを通して 富山の高道万石堂さんからいただきました 高道万石堂さんには、若い頃、ずいぶんとお世話になりましたが 石も集まってしまったこともあり、このところずっとご無沙汰していました 10年ぶり?くらいの購入です 本来、この台がついていましたが、いい石なので あまりに粗末です (木が軽い、仕上げも荒く、塗りにもムラ、そもそも分厚くてやぼったい) また、この据え付けだと、下の菊が見にくいので 仮台にやや斜めに据えて、撮影しました じつは、純白、くっきりの赤って、皆無に近いのです 実際、菊花石の聖典と言える 石原さんが運営のサイト「菊花石物語」にもないです 赤花の白はほとんどの場合、灰花です また、赤が入ると、花が乱れるということもあります ところが、ピンクの場合は、純白もあるし、なぜだか乱れません この石は、純白の花が、ピンクに染まり、その上に赤がのったので 奇跡の純白の赤になったのかと思います 上と下の花赤で、真ん中の花が紅白なのも素敵です ヤフオクで即決価格2万ででていて びっくりして、すぐに落札しました じつは、菊花石の収集をはじめた当初 純白の地に赤がのっている≪赤花菊花石≫の こぶりのものを2石、満点菊の川合さんより購入しています それ以来、「このタイプの花で、大きなものがあれば 純白の地の赤という理想的な赤花菊花石になるのだけどな・・・」と思いつつも そんな花の石にずっとお目にかかれなかったことから 「大きなものは、出なかったのだろう」と思っていました その後、この2石は、石友さんのもとに渡っていったので 石友さんより画像を送ってもらいました 『一つは近くにあったので写真とりました もう一石は、PC画面の写真です』 とのことです 双方、ほぼ画像ぐらいのの大きさです 母岩は、本石より茶っぽいです 要するに、本石は、緋山にとっては 15年ぐらい経って、突然、現れた 理想的な赤花菊花石ということなのです 台座を七里さんに作っていただきました タガヤサンの台座です ロウ引きもし直していただけたそうです 台座が薄くてオシャレになりました 鶯の母岩にカラフル花 銘 「吉原」(よしわら) 横20×高さ(台込)25×奥7.5 およそ5.5㎏ 白木産、鶯色の母岩に 紫、赤、黄色、純白の白が混じった花がカラフルに咲き おまけに母岩のアタマに緑がのって 一層、色彩を豊かにしています 特別稀少な石です 杉山さんより入手しました 東京の鶯谷の地名の由来は、江戸時代初期に 上野寛永寺の門主が鶯を放ったことに由来しているそうです また、山手線の駅 鶯谷は、歓楽街 吉原の玄関口でもあります 江戸時代には幕府公認の吉原遊郭があり多くの遊女が春を売っていました 銘「吉原」は、春を思わせる鶯の母岩と、遊女が売る春をかけ また、鶯の母岩に、遊女の着物の柄を思わせる カラフルな花が咲いている石であることから付けました
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